-短編ホテル-「青い絵本」

青い絵本

桜木紫乃Shino Sakuragi

 沿道に見える木々は満開の桜で、目を和ませてくれる。この花が、命の目安に使われていることの不思議が胸をかすめてゆく。
 好子は富士山の見える山間の中腹に建つホスピスにいた。美弥子が訪ねてくることは昨日のうちに報されていたといい、ロビーの日だまりで車椅子に座って待っていた。
「いらっしゃい。このあいだ会ったときより少し顔がすっきりしちゃってるわねえ。無理したのじゃないの? ちゃんと寝てるの?」
 好子に労(ねぎら)われると居場所に困る。ちいさく頭を下げた。
「いいところね、ここ」かろうじてそう言うと、好子の皺が深くなる。
「ザワちゃんがお世話してくれた、終(つい)の棲家(すみか)よ。景色もいいし、空気もきれい。とても気に入ってるの。それにほら」
 指さす先にある大きな窓には、雪をたたえて空を背負った富士山が見える。
「もったいないくらいの眺めだと思うの」
 小澤理加が頭を下げた。
 一階の庭に面したワンルームの部屋は、簡素な佇(たたず)まいだった。ベッド周りに多少の生活感があるほかは、ちょっとしたヴィラだ。部屋自体は狭いけれど、ものの配置は支笏湖の宿に似ている。開け放したテラス窓から、いい風が入り込んできた。外気が二十五度を超えた日は夕刻まで外の空気を取り込むという。
 テラスのテーブルに車椅子を着ける。小澤理加が簡易キッチンで湯を沸かしハーブティーの準備を始めた。美弥子は好子に請われるまま、バッグの中から梱包した絵の束を取り出した。
「お茶が来る前に、見せてちょうだい。ザワちゃんが急がせたのね。もう少し大丈夫よって言ってあったのに」
 好子が笑うと、陽光とともに長いレースのカーテンも揺れた。
 一ページごとに三枚の絵を広げた。テラスのテーブルにそれを並べると、好子の表情が柔らかさとつよさに引き締まる。三枚同時に視界に入れ、真ん中の一枚を持ち上げて膝にのせる。好子は残りの二枚を美弥子に返した。
 美弥子は無言で次のページの絵を並べる。ものの三秒で右端の一枚を手にして、膝にのせる。三ページ目─広げてから五秒を待たずに、一枚を選んだ。好子は、ひと言も喋(しゃべ)らない。並べたら数秒で一枚を選び取る。
 そして、ラストの一枚を瞬間で決めて、一冊分の絵が決定した。気づくとお茶の用意を終えた小澤理加が、すぐそばでにこにこと微笑んでいる。音を立てずに拍手の仕種だ。
「ミヤちゃん、ありがとう。いいものになりそう。わたしには描けない絵だと思うわ」
 どのイラストも、筆のタッチだけで輪郭は一切ない。光はとことん白く、闇は黒く、水も空も人の心も縦や横、あるいは斜めに走らせた筆の跡で表現してゆく。
 薄かったり濃かったり、碧を帯びていたり赤みが差していたり。
 青や藍、紺、碧、タイトルに負けぬようなブルーをふんだんに使った。

プロフィール

桜木紫乃(さくらぎ・しの) 1965年北海道生まれ。2002年「雪虫」で第82回オール讀物新人賞を受賞。07年同作を収録した単行本『氷平線』でデビュー。13年『ラブレス』で第19回島清恋愛文学賞、同年『ホテルローヤル』で第149回直木賞、20年『家族じまい』で第15回中央公論文芸賞を受賞。他の著書に、『硝子の葦』『起終点(ターミナル)』『裸の華』『緋の河』など。近刊に『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』がある。