よみもの・連載

おひとりさまごはん

ひとりで鴨南蛮と揚げ饅頭

深緑野分Nowaki Fukamidori

 まさか自分が小説家になれるだなんて、一年前までは思いもしなかった。
「それじゃあ三条(さんじょう)みえさん、新作お待ちしていますので」
 そう言って、向かいに座る担当編集者の朝田(あさだ)さんはにっこり笑った――ただし、大きな不織布の白いマスクが顔の下半分を覆っているせいで、目元しかわからない。かくいう私自身もマスクをしているから、どんな表情をしているのか伝わっているかどうか。
「はい、がんばります」
 かろうじて答えたものの、朝田さんの「新作」という言葉から溢(あふ)れ出るプレッシャーで、私の表情筋はカチコチに固まっている。鼻梁(びりょう)に掻(か)いた脂汗のせいでメガネがずれ、何度もかけ直した。
 就活の面接の時と比べてどっちの方が緊張しているだろうか。たぶん、今。だって小さい頃からずっとなりたかった小説家になれたんだもの。ああ、すごい新作を書かなくちゃ。絶対に。
「よろしくお願いしますね。プロットが出来たら、メールして下さい」
 朝田さんが立ち上がったので、私も慌てて立ち上がる。慌てすぎて会議室の椅子が後ろにひっくり返り、派手な音を立てた。
「あっ、す、すみません」
 きっと耳まで真っ赤になっていることだろう。急いで椅子を戻しながら、朝田さんの視線を感じた。長い茶髪をゆるやかに巻いたヘアスタイルに、白いパンツスーツ姿の彼女は、とても垢抜(あかぬ)けて見える。目元は相変わらずにこやかだ。でも大きなマスクで、本当のところはやっぱりわからない。
 多くの社員がリモートワークに切り替えたそうで、出版社のひとけは少なく、会議室を後にして正面玄関に着くまで、二、三人としかすれ違わなかった。どこかで電話が鳴っているけれど、取る人が近くにいないのか、鳴り止(や)むまでずいぶん時間がかかっていた。
 一年前までは小説家になれるだなんて思いもしなかったけれど、世間に感染症が蔓延(まんえん)するとは、もっと想像だにしていなかった。
「……あの、朝田さん」
 前を行く朝田さんに声を掛ける。
「何でしょう?」
「新作についてなんですけど。感染症のことって、書いた方がいいんでしょうか」
 あと二ヶ月ほどして年が明ければ、感染症が流行(はや)りはじめてもう丸一年になる。世界中がパニックを経験している今、フィクション小説はどういう位置から書くべきなのか、私は迷っていた。
 すると朝田さんは立ち止まって、「そうですねえ」と腕組みすると、
「書く方もいらっしゃいますが、書かないで、感染症以前の世界設定のまま進める方もいらっしゃいます。これはもう、人による感じですね」
「……なるほど」

プロフィール

深緑野分(ふかみどり のわき) 1983年神奈川県生まれ。2010年「オーブランの少女」が第7回ミステリーズ!新人賞で佳作に入選。
13年に同作を含む短編集『オーブランの少女』でデビュー。
他の著書に『戦場のコックたち』『分かれ道ノストラダムス』『ベルリンは晴れているか』『この本を盗む者は』がある。

Back number