よみもの・連載

おひとりさまごはん

ひとりで鴨南蛮と揚げ饅頭

深緑野分Nowaki Fukamidori

「んんん」
 思わず唸(うな)りながらひと口、もうひと口と食べ、カシュ、じゅわ、しっとりの順に押し寄せる歯ごたえに舌鼓を打つ。そうすると口の中が甘くて、甘塩(あまじょ)っぱい物が欲しくなる。欲望のままに湯呑(ゆの)みを摑(つか)み、桜湯の香り豊かな塩気を堪能する。ああ、甘い物と塩っぱい物のループは果てがない。その上、饅頭は揚げ物でもあり、幸福感が倍増される。
 あっという間に揚げ饅頭をひとつ食べ終わってしまっても、まだもうひとつ残っているこの幸せ。私は揚げ衣の端っこを囓(かじ)り、油のにおいをむんむんさせている衣をひとしきり味わうと、がぶっと饅頭本体に食いついた。餡この優しくてほんわりした香り、滑らかな舌触り。なんともなんとも、これは立派な芸術作品だと思う。
 いったいどのくらいの研究をして、この揚げ饅頭は完成したのだろう。どうして饅頭を揚げてみようと思いついたんだろう。
 その時、はたと気づく。私も、オリジナルのものを作ればいいんじゃないかな、と。この揚げ饅頭や、鴨南蛮の炙った鴨みたいに、丁寧に作られてさえいれば、共感≠ニか、感染症のような時世を鑑みた作品を書かなくても、いいんじゃないかな、と。
 丁寧――そうか。たぶん、先ほどあの書店で出会った読者の人は、私がちょっと面倒くさがって端折(はしょ)った部分のせいで、入り込めずに最後まで読めなかったのかもしれない。読者の想像力に甘えずに、ひとつひとつ解きほぐしながら、たまに桜湯みたいに味わいの違うもので牽引(けんいん)して、読み通してもらえたらいいんじゃないだろうか。
 何が正解かは、相変わらずわからない。でも朝田さんに、今日気づいたことをメールしてみよう。全然相手にしてもらえないかもしれないけれど――だって鴨南蛮と揚げ饅頭で気づいたことが次の新作のプロットになるだなんて、ちょっと笑っちゃうでしょう。
 でも、体が温まってきたせいか、さっきまで抱えていた不安や恐怖が、少し和らいだ気がしていた。久々の外食をして、美味しくて楽しくて、今まで以上に日常が大事に感じられたこともある。たくさんのストレスに苛(さいな)まれる昨今だけれど、だからこそ共感や時節柄以上に、楽しいと感じられることが必要なんじゃないか。そのために、私は丁寧に文章を紡いでみるのだ。
 丁寧に、丁寧に。そう思いながら、私は揚げ饅頭の最後のひとかけらを大きな口で食べた。ああ、食べ終わってしまった。ふたつもあったのに、両方食べきってしまった。残念だけど、でもすっごく美味しかった。
 願わくは、読者の人にも、私の書いた小説を読み終わるのが惜しいと、でもとても楽しかったと思ってもらえるように、なりたい。
 私はまたマスクをつけ、「お会計お願いします」と伝票を持ち上げてレジに向かった。重たかった足取りも心も、すっかり軽くなっていた。

(了)

プロフィール

深緑野分(ふかみどり のわき) 1983年神奈川県生まれ。2010年「オーブランの少女」が第7回ミステリーズ!新人賞で佳作に入選。
13年に同作を含む短編集『オーブランの少女』でデビュー。
他の著書に『戦場のコックたち』『分かれ道ノストラダムス』『ベルリンは晴れているか』『この本を盗む者は』がある。

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