よみもの・連載

おひとりさまごはん

ひとりで飲茶

深緑野分Nowaki Fukamidori

「わあ、とてもよくお似合いになりますよ」
 鏡越しに、店員の女性が少し上ずり気味の声で言った。
 試着室の中にあったぶかぶかの黒いハイヒールを履き、値札が付いたままのワンピースを着た私は、「そうですかね……」と口をもごもごさせる。
 百貨店の重たいドアをおそるおそる開けたのは、ついさっきのこと。婦人服フロアの白くてぴかぴかした床の端っこをそろそろ進み、いつも服を買うルミネとかマルイとかとは違う雰囲気にびくつき、どの店にも入れないまま一周二周歩き回って、やっと入れたブティックがここだ。鏡に映った私は顔が強張りまくっている。
 店員氏いわく「お似合いに」なっているのは、もちろんこの、いろんな人が履いていったであろうくたびれた試着用ハイヒールじゃなくて、グレーのワンピースの方だ。
 値札を確かめて目が飛び出そうになっただけに、生地と仕立てが良いのはわかる。デザインは、襟がやや立ち上がったハイネックで袖は七分、スカートは長めで全体的にタイトなシルエットが、どことなく古い映画に出てくる女の人っぽい。柄は、淡いグレーの地に、濃いグレーの太線が縦横に走るチェック。
 鏡の前で回ったり前屈みになったりして背中やスカート丈の具合を見ていると、店員氏が紫色の華奢なベルトを持ってきてくれた。腰に締めてみると思わず「おー」と声が出る。モノトーンに紫が映えてなかなか素敵だ。そのベルトの価格を見て、まためまいを起こしかけはしたけど。
「秋らしくて素敵です。このチェック柄はプリントではなく生地に織り込んであるものなので、パーティでも大丈夫ですよ。結婚式の二次会ですか?」
「ええ……まあ……そんなとこです」
 本当は結婚式でも二次会でもないのだが、うまく説明出来ないので濁すと、店員氏もそういう客に慣れているのか、「ちょっとしたよそ行きでも結婚式の二次会でも、この服なら大丈夫ですよ」と微笑(ほほえ)んで、それ以上は突っ込んでこなかった。
「ありがとうございましたー」
 これだけでも高いに違いないきれいな紙袋を片手に、私はよろよろと店を出た。買ってしまった。ワンピースだけで三万五千円もしたのに、あの紫のベルトも欲しくなってしまい、併せて五万円。ひと月分の給料を考えると財布が火を噴きそうだ。こんな高いものを買った自分が信じられない。十月だというのにのぼせたように頬がかっかして、頭がぼうっとする。
 ただ、私は幸い実家暮らしだ。電車一本で行ける会社で契約社員として働いて、家賃の代わりに光熱費と食費を両親に渡してはいるものの、少しは貯金があった。来月のお昼ご飯は会社の近くにある、二百円で大きなおにぎりをふたつ売ってくれるお弁当屋さんを使えばいい。
 そんなことを考えながら、金曜日の夕方らしく人でいっぱいのエスカレーターに乗り、紙袋を宝物とばかりに両手で優しく抱きかかえた。

プロフィール

深緑野分(ふかみどり のわき) 1983年神奈川県生まれ。2010年「オーブランの少女」が第7回ミステリーズ!新人賞で佳作に入選。
13年に同作を含む短編集『オーブランの少女』でデビュー。
他の著書に『戦場のコックたち』『分かれ道ノストラダムス』『ベルリンは晴れているか』『この本を盗む者は』がある。

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