よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)3

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「もしも、さような感情があるのだとしても、禰々様が実家と連絡することを禁じてよいという理由にはなりませぬ」
「まあ、こちらの理屈としてはそうなのだが……。ところで、そなたらが諏訪家と小笠原家の和睦が当家にとって良い話ではないと考える理由は何だ?」
 その問いに、信方は背筋を伸ばして答える。
「それにつきましては、忌憚(きたん)なく、お答えさせていただきまする。元々、諏訪家が当家との縁組と盟約を望んだのは、小笠原との長きにわたる諍(いさか)いがあったからにござりまする。まだ存命だった諏訪頼満(よりみつ)殿が当家と小笠原からの挟撃を怖れ、苦肉の策として信虎(のぶとら)様に和睦を申し入れてきました。されど、小笠原長棟(ながむね)も出家し、積年の怨恨は薄れ、同じ信濃の勢力として争うことに得がないと判断したのだと思いまする。やはり、そこには村上(むらかみ)義清(よしきよ)の思惑も働いているのではありませぬか」
「散々、当家を利用したくせに、村上がわれらを信濃へ入れさせまいとしているということか」
「さようにござりまする。そのために小笠原や木曾(きそ)を利用したのではありますまいか」
「頼重殿もその策に取り込まれたと?」
「まだ定かではありませぬが、もしもそうだとすれば、状況は当家にとって相当に深刻であると言わざるを得ませぬ。いま一度、佐久(さく)などを含めて周囲の状況を摑み直すべく、詳細な諜知を命じておりまする」
「うむ、わかった。内政だけに集中していたかったが、どうやら、さほど都合良くはいかぬようだな」
 晴信は気を引き締め直す。
 ――若にも、われらの危機感がしっかりと伝わったようだ。
 信方は満足げに頷いた。
 すでに暦は如月(二月)の終わりに差しかかり、新月を迎えようとしていた。
 そして、事態が激変したのは、弥生(三月)に入って間もなくのことである。
 それは北巨摩(きたこま)郡須玉(すだま)にある若神子(わかみこ)城からの急報で始まった。
 伝令の話では、甲斐と信濃の国境(くにざかい)となる甲六川(こうろくがわ)の北西に位置する諏訪郡富士見台の瀬沢(せざわ)に大軍が集結しているというのである。
 甲六川の南東にある小淵沢(おぶちざわ)の笹尾(ささお)砦にいた兵が物々しい気配を察知し、物見に出たところ、この軍勢を発見したらしい。
「して、その旗印は?」
 晴信が伝令に訊く。
「主力と思しき旗印は三階菱(さんがいびし)、九曜(くよう)と竜胆(りんどう)にござりまする」
「三階菱?……小笠原の旗印ではないか!?」
 驚きながら、晴信が呟く。
「九曜と竜胆の紋ならば、それは木曾家の旗印でありましょう」
 信方が眉間に深い縦皺(たてじわ)を刻みながら言う。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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