第三章 出師挫折(すいしざせつ)3
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「何を申されるか、駿河殿。小笠原がぬけぬけと瀬沢まで出張ってきたということは、諏訪が自領の通行を許したからではありませぬか。瀬沢の軍勢は、諏訪家の本拠である上原(うえはら)城の眼前を通っておりまする。もしも、頼重殿に当家との同盟を尊重する気があるならば、諏訪へと至る前にこれを押し止め、当家に知らせてきたはずにござりまする」
歯に衣(きぬ)を着せぬ言葉で、原虎胤が言い放つ。
評定の場が凍りついたように静まりかえった。
その静寂を打ち破るように、晴信が口を開く。
「確かに、その通りであるな。美濃守(みののかみ)、遠慮なく、そなたの意見を聞かせてくれ」
「……有り難き仕合わせにござりまする。小笠原や木曾の兵が諏訪の城下を通ることを許したならば、頼重殿はかの軍勢の後詰(ごづめ)も同然の役割を担っていると言えましょう。それは当家との盟約をないがしろにする行為、決して看過できる事柄ではありますまい」
原虎胤はあえて他の者が言えないことを代弁しているようだった。
「異論はない。続けてくれ」
晴信は話の先を促す。
「承知いたしました。小笠原が瀬沢に陣取ったということは、いかにも信濃守護として当家を咎(とが)めに来たとしか思えませぬ。諏訪や曾根(そね)の信濃勢がそれに追従しており、おそらく村上もそこに加わっているはず。それは当家の代替わりを侮っているからとしか思えず、何よりも陣取った場所が問題にござりまする。瀬沢は禰々様の輿入(こしい)れの際に、当家が諏訪に譲った土地ではありませぬか」
原虎胤がいったように、信濃の瀬沢は武田家にとっても特別の意味があった。
元々、甲斐と信濃の国境は、瀬沢よりも諏訪寄りの北西にある立場川(たつばがわ)を境界としていた。
しかし、天文九年(一五四〇)に禰々が諏訪頼重に輿入れする際に、父の信虎が瀬沢付近の富士見台十八村を御化粧料として持たせたという由来がある。
それにより甲斐と信濃の国境が小淵沢と富士見台の間を流れる甲六川に変更された。瀬沢はまさにこの河の畔となる場所で、旧来の武田領だった。
信濃の軍勢はそこに踏み入ってきたのである。
「確かに、美濃守殿の申す通りではありませぬか」
次に口を開いたのは、甘利(あまり)虎泰(とらやす)だった。
「信濃の者どもは甲斐に兵を向けただけでなく、武田家の故地を踏みにじったと言えまする。これを見逃したのでは、当家の面目が立ちませぬ。懼(おそ)れながら申し上げますが、ここは断固として対処すべきと考えまする」
「備前守(びぜんのかみ)の意見は、よくわかった。他に何か言いたい者はおらぬか?」
晴信は一同を見廻(みまわ)すが、意見を発する者はいない。
「皆も異論はないようだな。加賀守(かがのかみ)、これから急ぎ兵を集めるとして、瀬沢にはどのくらい出せそうか」
晴信は陣場(じんば)奉行としての原昌俊の見解を問う。
「七千……いや、何とか八千は集められると思いまする」
「兵粮(ひょうろう)は?」
「長い戦(いくさ)は無理にござりますが、短期の決戦ならば、何とか……」
「さようか。ならば、すぐに陣触(じんぶれ)を出したいと思うが、板垣(いたがき)、異論はあるか?」
晴信の問いに、信方は横に首を振る。
「異存ござりませぬ。すぐに陣触を発しまする」
「では、われらの総意として瀬沢にて信濃勢を迎え撃つこととする。余も出陣するゆえ、皆、万全の支度を頼む」
眦(まなじり)を決し、晴信がきっぱりと言い切った。
「はっ!」
一同は一斉に頭を下げる。
こうして急遽(きゅうきょ)、武田勢の出陣が決まった。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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