連載
新 戦国太平記 信玄
第二章 敢為果断(かんいかだん)4 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

   十  (承前)

 確かに元服から初陣を経て、今回の婚儀の話に至るまで、太郎が乙名(おとな)として通るべき儀礼は滞りなく進められていた。
 しかし、依然として父との齟齬(そご)が改善されたわけではなく、次郎への溺愛も変わっていない。家中には未だ太郎の廃嫡を煽(あお)り、次男を世嗣(よつ)ぎにして強権を握ろうとする重臣たちもいる。何よりも、惣領(そうりょう)の信虎(のぶとら)が晴信(はるのぶ)を幼名の「勝千代(かつちよ)」で呼び続けていたり、嫡男としての扱いを明言していないことが問題だった。
 さらに、国内の動揺も激しさを増している。
 長びく飢饉(ききん)に加え、間断ない合戦を行い、そのための徴発のせいで甲斐一国は疲弊し、困窮に苦しむ民の間にも怨嗟(えんさ)の声が広がり始めていた。
 国主として何かしらの手立てを講じなければならなかったが、信虎はさして脈絡もなく戦(いくさ)を行い、利を得るどころか無駄な蕩尽(とうじん)が繰り返されている。その影響が家臣たちの扶持(ふち)にまで及び、無言の不満がぱんぱんに膨れ上がり、何かの契機で破裂するかもしれない。
 甲斐を統一した武田家の体制は、見かけ以上の危機を孕(はら)んでいた。
 そうした状況が晴信の立場を揺るがし、迫りくる不安に拍車をかけている。
 ――歌会、それに京の都からの輿入(こしい)れ……。初めてのことばかりで、正直、いかように対処すべきか、見当もつかぬ。されど、今は御師の言葉を信じ、目先にある新題をやり遂げねばならない。武経七書(ぶけいしちしょ)の修学に加え、古今集に源氏物語。はぁ、やらねばならぬことが多すぎる……。 
 重圧に耐えながら、黙って精進を続けるしかなかった。
 同じように、傅役(もりやく)の信方(のぶかた)も悩み続けている。
 ――次郎様は今年で齢(よわい)十三、あと二年もすれば御元服の運びとなるであろう。それまでに、嫡男としての若の立場を固めねばならぬ。何か、よい手立てはないものか……。
 ずっと考えているが、起死回生の一手となる妙案は浮かばなかった。
 ――とりあえず、今はやるべきことをやるしかないか。されど、いまさら古今集の音読と源氏物語の修読をせねばならぬとは思わなかった。まことに、苦手だ……。というか、好かぬ!
 信方は仕方なく古今集の音読を始める。   
 文机(ふづくえ)の置いてある室に、風雅なはずの和歌が念仏の如く響いていた。



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〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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