よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

   七十五 

 真田(さなだ)幸隆(ゆきたか)の胃の腑(ふ)に、吐き出しようのない憤怒(ふんぬ)が滾(たぎ)っていた。
 鬼の形相となり、握りしめた槍を何度も振り回す。そんなことをしても、まとわりつく霧を払えるはずはなかったが、つい腹立ち紛(まぎ)れに軆(からだ)が動いてしまう。
 ここまでの行軍ではことごとく深い霧に行く手を阻まれ、やっとの思いで妻女山(さいじょさん)の陣馬平(じんばだいら)に辿(たど)り着いたが、敵の本陣には人の気配さえなかった。
 ─―おのれ、景虎(かげとら)めが……。
 真田幸隆は歯嚙(はが)みする。
 己が担った奇襲はまったくの空振りに終わり、どこにもぶつけられない怒りを抱えたまま立ちつくしていた。
 ちょうど八幡原(はちまんばら)で越後(えちご)勢の攻撃が始まろうとしていた頃の妻女山だった。
 幸隆の背後から、顔色を失った馬場(ばば)信房(のぶふさ)が声をかける。 
「一徳斎(いっとくさい)殿、いったい何が起こっているのやら……」
「民部(みんぶ)殿、どうやら謀(はか)られたのは、われらのようだ」
「……昌信(まさのぶ)が残していった使番(つかいばん)の話によると、香坂(こうさか)隊は一足先にこの下にある赤坂山(あかさかやま)を通り、まっすぐに松代(まつしろ)へ向かったそうにござる」
「景虎が海津(かいづ)城へ寄せたと?」
「奇襲をかわした越後勢がその経路を使い、海津城へ寄せたかもしれぬと考えたようで……」
「まさか!?……越後勢がわれらの奇襲を察知し、裏をかいて総軍で松代へ下りたとは到底考えられませぬ。大軍が山中を移動していた気配など微塵(みじん)たりとも感じなかった」
 真田幸隆は眉をひそめて首を振る。
「信じられぬことだが、この空蝉(うつせみ)の陣といい、すべてにおいて先んじられていたとしか考えられますまい。ひと足先にここへ寄せた昌信は、さように考えて次の動きを決めたのでありましょう」
「さにあろうとも、われらとの合流を待たずに動くとは勝手すぎまする。民部殿、さようには思いませぬか?」
「確かに勝手な動きをしているとは思うが、われらが遅参したゆえ、それも仕方ありませぬ。ところで、一徳斎殿は次の一手をいかように考えておられまするか?」
 馬場信房が顰面(しかみづら)で訊く。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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