四 それは駿河に降って湧いたような内訌(ないこう)だった。 発端は天文五年(一五三六)三月十七日、今川氏輝(うじてる)がわずか齢(よわい)二十四にして急逝したことにあった。隣国の甲斐で、武田太郎の元服が決まった直後の出来事である。 今川家の若き惣領(そうりょう)はまだ正室を娶(めと)っておらず、嫡男となる子もいなかったため、それが相続争いの火種となってしまった。 氏輝の急死により、継承順で考えれば、次の惣領は弟の彦五郎(ひこごろう)になるはずであった。 しかし、驚くべきことに、兄と同じ日、この彦五郎も亡くなっている。なにやら、そこには今川家の相続を巡る仄暗(ほのぐら)い凶事が見え隠れしていた。 先々代の今川氏親(うじちか)には六人の男子がおり、死後の内訌を防止するため、生前から嫡子の龍王丸(たつおうまる)(氏輝)への家督相続が決められ、他の者たちは僧門へ入ることになった。 だが、幼少の頃、龍王丸が病気がちであったため、大事をとって次男の彦五郎だけは駿府に残された。三男は曹洞宗(そうとうしゅう)、四男は律宗(りっしゅう)、五男の芳菊丸(ほうぎくまる)が臨済宗(りんざいしゅう)の寺へ入れられ、六番目の男子が側室との間に誕生したが、早々に那古野(なごの)の分家へ養子に出されている。 今川氏親が十年前に逝去した時、龍王丸が齢十四であったため、しばらくは母の寿桂尼(じゅけいに)が今川家の諸事を取り仕切った。その二年後に元服し、氏輝として家督を嗣(つ)いだのだが、次男の彦五郎はこれまで元服の儀も行われないまま、駿府の今川館でひっそりと暮らしてきた。 その次男と惣領の兄が時を同じくして死ぬというのは、到底、偶然とは思えない。仕物(しもの)、つまり、暗殺の匂いまでが漂っていた。 二人が同時にいなくなれば、次に相続の順番が廻ってくるのは、曹洞宗の僧侶となった三男の玄広(げんこう)恵探(えたん)である。しかし、この三男は氏輝や彦五郎とは、少し境遇が違っていた。正室の寿桂尼から生まれた子ではなく、重臣である福島(くしま)家の娘から生まれた腹違いの兄弟である。 律宗の僧侶となった四男の象耳(しょうじ)泉奘(せんじょう)も正室の子ではなく、今回の一件からは遥か遠く離れた処(ところ)にいた。臨済宗へ入るために京へ上った五男の栴岳(せんがく)承芳(しょうほう)が寿桂尼から生まれており、やはり、母親の違いが今川宗家との遠近(おちこち)を分けているようだった。 生前の今川氏輝は母からの訓戒もあり、己の未熟さを自覚し、一門衆や重臣の合議制によって領内を固めようとした。 しかし、三河で松平家の勢いが強まり、領地争いから後退を余儀なくされると、京の五山で修行していた弟の栴岳承芳と傅役(もりやく)の太原(たいげん)雪斎(せっさい)(崇孚〈そうふ〉)を駿府へ呼び戻した。 おそらく、下の弟を還俗させ、身内の将を増やそうという考えだったのだろうが、その前に氏輝が力尽きてしまったのである。