「……して、御屋形様はいかような御返答をなされたのでありましょうや?」 「向こうが素直に頭を下げてくるならば、こちらとて鬼ではない。まあ、意に沿うよう考えておこうと答えておいた」 「では、駿河に兵を出されると」 「駿河に兵を出すというほどのことでもない。詳しく話を聞けば、戦のあらかたはすでに終わり、義元とやらの勝ちは揺るがぬようで、三男の坊主は遠江の寺で自害したようだ。そ奴を担いだ莫迦(ばか)な家臣どもがまだ残っておるゆえ、その掃討を手伝うてほしいとのことだ。駿東で兵を挙げた者がいるらしく、その残党が甲斐を頼って逃げるだろうと申しておる。国境を越えたそれらの者どもを片付けてほしいのであろう」 相変わらず不気味な笑みをたたえながら信虎が話を続ける。 「どうだ、さして難しい話でもなかろう。さように容易い仕事ならば、余が出張るまでもない。そこでだ、これを勝千代(かつちよ)の初陣としてはどうだ。まがりなりにも、相手は今川の者だ。最初から勝ちも見えており、不足はなかろう」 ──そういうことであったか……。 信方は思わず奥歯を噛みしめる。 ──与力と申しておるが、これは内訌の後始末ではないか。かような汚れ仕事を晴信様の初陣にせよとは……。 「懼(おそ)れながら、御屋形様に申し上げたきことが」 その言葉を聞き、信虎の笑みが消える。 「何であるか」 「お話を伺えば、確かにこれは尻尾を振るが如き、今川家からの援軍要請にござりまする。されど、かように容易き戦へ御屋形様のご長男が出張ったとなれば、武田家が安く見られてしまうのではありませぬか。今川家の如きに甘く見られるのは耐えられませぬ。御屋形様の御出陣は言うに及ばず、晴信様が動くことさえ、武田家にとっては勿体のうござりまする。かほどの後始末ならば、この板垣め一人にお任せいただければ、充分にござりまする」 信方は機転を利かし、主君の矜恃(きょうじ)をくすぐりながら、晴信の初陣を回避しようとした。 「ほう、そなたも少しは気の利くことを申すようになったではないか」 「……その御言葉、恐悦至極にござりまする」 「確かに、出来の悪い息子とはいえ、坊主上がりの小童と同じに見られるのは面白くないな。傅役が一人で事を捌(さば)いたとなれば、当家が安く見られることもないか。よかろう、こたびは特別にそなたの具申を採用してやろう」 「有り難き仕合わせにござりまする!」 平伏しながら、信方は安堵の溜息をついていた。 「されど、信方。この仕事は容易いように見えて、それなりの難儀もあるぞ。そなた、まことに大丈夫か?」 「難儀と……申されまするのは」 「向こうは、謀叛人が国境を越えて甲斐に入るのを阻止してくれと申しておる。それは当たり前のことで、今川に頼まれぬでも、猫の子一匹、国境を跨(また)がせるつもりはない。まあ、駿東の者どもが逃げてくるならば、昨年に出張った万沢の辺りで止めねばならぬであろう。されど、今川は謀叛人が駿河へ戻ることも望んでおらず、当家の裁量で処罰してほしいと申しておる。簡単に言えば、国境で一人残らず撫で斬りにしてくれということだ。おそらく、向こうとしても、武田がどれほど非情に徹するかを見極めたいのであろう。苛烈に裁けば裁くほど、今川は恐れをなし、当方に有利な和睦が結べるというわけだ」 信虎はこともなげに言い、薄く笑いながら信方を見つめる。 「心優しきそなたに、さように非情な始末ができるのか、信方?」 餒虎(だいこ)の眼が光っていた。 今川の謀叛人を駿河の側で皆殺しにできるか? そういう問いかけだった。