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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志5 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「……して、御屋形様はいかような御返答をなされたのでありましょうや?」
「向こうが素直に頭を下げてくるならば、こちらとて鬼ではない。まあ、意に沿うよう考えておこうと答えておいた」
「では、駿河に兵を出されると」
「駿河に兵を出すというほどのことでもない。詳しく話を聞けば、戦のあらかたはすでに終わり、義元とやらの勝ちは揺るがぬようで、三男の坊主は遠江の寺で自害したようだ。そ奴を担いだ莫迦(ばか)な家臣どもがまだ残っておるゆえ、その掃討を手伝うてほしいとのことだ。駿東で兵を挙げた者がいるらしく、その残党が甲斐を頼って逃げるだろうと申しておる。国境を越えたそれらの者どもを片付けてほしいのであろう」
 相変わらず不気味な笑みをたたえながら信虎が話を続ける。
「どうだ、さして難しい話でもなかろう。さように容易い仕事ならば、余が出張るまでもない。そこでだ、これを勝千代(かつちよ)の初陣としてはどうだ。まがりなりにも、相手は今川の者だ。最初から勝ちも見えており、不足はなかろう」
 ──そういうことであったか……。
 信方は思わず奥歯を噛みしめる。
 ──与力と申しておるが、これは内訌の後始末ではないか。かような汚れ仕事を晴信様の初陣にせよとは……。
「懼(おそ)れながら、御屋形様に申し上げたきことが」
 その言葉を聞き、信虎の笑みが消える。
「何であるか」
「お話を伺えば、確かにこれは尻尾を振るが如き、今川家からの援軍要請にござりまする。されど、かように容易き戦へ御屋形様のご長男が出張ったとなれば、武田家が安く見られてしまうのではありませぬか。今川家の如きに甘く見られるのは耐えられませぬ。御屋形様の御出陣は言うに及ばず、晴信様が動くことさえ、武田家にとっては勿体のうござりまする。かほどの後始末ならば、この板垣め一人にお任せいただければ、充分にござりまする」
 信方は機転を利かし、主君の矜恃(きょうじ)をくすぐりながら、晴信の初陣を回避しようとした。
「ほう、そなたも少しは気の利くことを申すようになったではないか」
「……その御言葉、恐悦至極にござりまする」
「確かに、出来の悪い息子とはいえ、坊主上がりの小童と同じに見られるのは面白くないな。傅役が一人で事を捌(さば)いたとなれば、当家が安く見られることもないか。よかろう、こたびは特別にそなたの具申を採用してやろう」
「有り難き仕合わせにござりまする!」
 平伏しながら、信方は安堵の溜息をついていた。
「されど、信方。この仕事は容易いように見えて、それなりの難儀もあるぞ。そなた、まことに大丈夫か?」
「難儀と……申されまするのは」
「向こうは、謀叛人が国境を越えて甲斐に入るのを阻止してくれと申しておる。それは当たり前のことで、今川に頼まれぬでも、猫の子一匹、国境を跨(また)がせるつもりはない。まあ、駿東の者どもが逃げてくるならば、昨年に出張った万沢の辺りで止めねばならぬであろう。されど、今川は謀叛人が駿河へ戻ることも望んでおらず、当家の裁量で処罰してほしいと申しておる。簡単に言えば、国境で一人残らず撫で斬りにしてくれということだ。おそらく、向こうとしても、武田がどれほど非情に徹するかを見極めたいのであろう。苛烈に裁けば裁くほど、今川は恐れをなし、当方に有利な和睦が結べるというわけだ」
 信虎はこともなげに言い、薄く笑いながら信方を見つめる。
「心優しきそなたに、さように非情な始末ができるのか、信方?」
 餒虎(だいこ)の眼が光っていた。
 今川の謀叛人を駿河の側で皆殺しにできるか?
 そういう問いかけだった。

 


 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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