よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

  二十九  

 躑躅ヶ崎(つつじがさき)館の主殿に大紋直垂(だいもんひたたれ)を纏(まと)い、侍烏帽子(さむらいえぼし)を被った晴信(はるのぶ)が入ってくる。武門の正装で身を固めていた。
 そこには、弟の信繁(のぶしげ)や孫六(まごろく)をはじめとして身内が勢揃いしている。この者たちも同様の装束だった。
 特に、齢(よわい)九となった晴信の長男、太郎(たろう)は初めて父や叔父と並ばせてもらい、緊張しながらも嬉しさで頰を紅潮させている。
 母の大井(おおい)の方(かた)や正室である三条(さんじょう)の方など御台所(みだいどころ)たちも控えていた。
「皆、待たせた。では、御方。始めようか」
 晴信が三条の方に命じる。
「はい」
 三条の方が屠蘇器(とそき)を用意した。
 屠蘇器とは、大中小の重ね盃(さかずき)を台に載せ、屠蘇を入れた長柄銚子(ながえちょうし)を加え、これらを高脚台の上で一組にしたものである。
 天文(てんぶん)十五年(一五四六)の正月朔日(ついたち)を迎え、式三献(しきさんごん)の儀が始まろうとしていた。
 晴信は屠蘇器を運ぶ三条の方を従え、まず長男の太郎の前に立つ。
「新年、明けまして、御目出度う」
 晴信が厳かな声で挨拶する。
「……明けまして、おめでとうござりまする。本年も、よろしく、お願いいたしまする」
 身を硬くしながら、太郎が答えた。
「盃を」
 銚子を手にした晴信が長男に促す。
「有り難き仕合わせにござりまする」
 太郎は深々と一礼してから、両手で小盃を持ち上げる。
 母の三条の方と稽古した通りの仕草だった。
 長幼の序に従って行われる通常の儀式とは逆に、身内での式三献は幼長の順で進められる。
 家長が長柄役となり、まずは最も年少の男子に盃台から最上段の小盃を取らせる。それから、その者の成長と武運を祈念し、三回に分けて屠蘇を注(つ)ぐ。
 盃を与えられた者は、それを三口に分けて呑む。
 呑んだら杯洗(はいせん)で注ぎ、次の年少者に渡し、中盃、大盃と繰り返していく。一人が三口三献を重ねる三三九度で縁起を担ぐのである。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number