よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「さて、次は、そなたが長柄役だ」
「……どのようにいたせば、よろしいのでありましょうや?」
「そび、そび、ばびの要領で三献を注ぐ。二献は鼠の尾のように細く短く。最後だけは、馬の尾のように太く長く」
「はい」
「注ぐ前に、何か言祝(ことほ)ぎの口上を」
「……はい」
 緊張した面持ちで、麻亜が銚子を持ち上げる。
「本年も御屋形様の御息災と……御武運をお祈り申し上げまする」
「かたじけなし」
 晴信は小盃を差し出す。
「……そび、そび、ばび」
 そう唱えながら、麻亜が三献を注いだ。
 晴信は驚いて眼を見開く。それから、我慢できずに噴き出してしまう。
「えっ!?……わたくしに何か、落度がございましたか?」
 怪訝(けげん)な面持ちで、麻亜が訊ねる。
「……いや、笑うてすまぬ。堪(こら)え切れなかった」
 晴信は一度盃を置き、胸を叩きながら笑いを止めようとする。
「……そび、そび、ばびは、心中で唱える言葉なのだ。教えなかった余が悪い。されど、そなたの言い方が幼子のように可愛かったので、つい笑いがこみ上げてしまった」
 その言葉を聞き、麻亜の面が真っ赤になる。
「……恥ずかしゅうござりまする。事前に、お教えくださらねば」
 耳朶までを紅に染め、口唇を尖(とが)らす。
「すまぬ。悪かった」
 晴信は小さく頭を下げてから、神妙な面持ちに戻る。
「では、改めて、いただきまする」
 小盃を干し、その後は無事に二献を終えた。 
 式三献を行ったことで、二人の緊張が少し解け、室内にあった嫌な沈黙が霧散していった。
 それでもまだ麻亜は沈んだ表情で黙っている。
「ずいぶんと浮かぬ顔をしているが、何かあったのか?」
 晴信は優しい声色で訊く。
 腹の底から笑ったおかげで、余計な緊張が抜け、少し心に余裕ができていた。
「どうした、正直に申してみよ」
「……長らく御屋形様のお越しがなかったのは、わたくしが不調法者だからだと母に叱られました。……義父上(ちちうえ)様もたいそう御心配なされて」
 麻亜は泣きそうな表情で言う。
「おいおい、余が諏訪に来られなかったのは、駿河での戦に出張っていたからだ。そなたのせいではないぞ」
「……されど、わたくしが酷(ひど)い勘違いをし、御立腹なされたのではありませぬか?」
「あれは、そなたに腹を立てたのではない。……あれは、己自身の醜態に怒りを覚えただけだ。余計な世話を見て、狼狽(ろうばい)した己にな」
「……大きな粗相もありました」
「もう気に病むな。何も怒ってはおらぬ」
「まことにござりまするか?」
「ああ、まことだ。だから、もう、この話は止(や)めにしよう。機嫌を直し、酒を注いでくれぬか」
 晴信は笑顔を見せる。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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