よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)21

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

  二十六(承前)

 話がまとまったと判断し、信方(のぶかた)は会合を締め括る。
「では、機を見て、若と膝詰めで話をするゆえ、それが終わるまで次の動きは待っていてくれ。皆、歯痒(はがゆ)いとは思うが」
「承知!」
 三人は力強く頷(うなず)いた。
 だが、この話し合いがあった後、少し状況が変わった。
 福与(ふくよ)城の藤澤(ふじさわ)頼親(よりちか)を降伏させ、上伊那(かみいな)を制した武田家は最後の仕上げにかかる。
 連日、新府で軍(いくさ)評定が重ねられ、藤沢頼親に与力した小笠原(おがさわら)の軍勢を追撃することが決められた。
 新たな戦(いくさ)を眼の前にし、さすがに晴信(はるのぶ)の面構えも引き締まる。ぼんやりと己の想いだけに浸っている暇はなく、軍略の組み立てに集中し始めた。
 晴信はあえて今川(いまがわ)家に援軍を願い、小笠原勢が後退した塩尻(しおじり)まで二正面から軍勢を寄せる策をとった。 
 武田勢は主力を下諏訪(しもすわ)の岡谷(おかや)城から塩尻峠を越える経路で進軍させ、信方が率いる別働隊が伊那街道の辰野(たつの)宿で今川勢と合流することになった。
 ここには小笠原勢が援軍の拠点とした龍ヶ崎(りゅうがさき)城があり、前(さき)の合戦でこの城を攻め落としたのが信方だったからである。
 別働隊と今川勢が武田勢と連係し、一気に塩尻へ寄せるという軍略だった。
 晴信にはこの申し入れを今川義元(よしもと)が受けるだろうという確信があった。
 予想通り、武田家からの要請を、今川家は快諾する。
 そこには盟約に加え、今川家にとっても隠された大きな利があったからである。
 塩尻宿は、塩の道と呼ばれる三つの街道と、京から東国までを繋(つな)ぐ東山道(とうさんどう)(中山道〈なかせんどう〉)が交差する特別な地だった。
 越後(えちご)の糸魚川(いといがわ)で作られる北塩は、信濃(しなの)へ南下することのできる千国(ちくに)街道を通って塩尻へと運ばれる。同じく駿河(するが)の御前崎(おまえざき)で作られる南塩も、秋葉(あきば)街道と伊那街道を北上し、この宿場へと届けられていた。
 つまり、秋葉街道─伊那街道─千国街道の連なりこそが、日の本で最も重要とされる「塩の道」のひとつだった。南塩と北塩が集積される宿場であるため「塩の尻」という命名がなされ、ここから東山道を通じて内陸の東西にも潤沢な塩が運ばれるのである。
 もちろん、海から隔絶された甲斐はただでさえ塩の入手が難しく、今川家と反目していた頃、武田家は喉から手が出るほど塩尻宿の覇権を欲しがってきた。
 そして、今川家は南塩を大きな収入源としており、それは京の都でも重宝とされていた。
 この塩尻から小笠原家を排除し、武田家の威光が増すことで、盟友の今川家も多大な恩恵を受けることができる。
 塩尻で南塩の安全は保証され、それを扱う塩座や商人、馬借(ばしゃく)車借(しゃしゃく)も優遇でき、逆に松本平(まつもとだいら)を通ってくる北塩を制限することさえ可能だった。
 今川家が信濃までの援軍を承諾した背景には、そうした目論見が隠されていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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