よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)21

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 駿府の今川義元とのやり取りを経て、数日後に塩尻宿に高札が立てられる。
「熊井城が武田家の手に落ちたことを告げ、宿場にはこれまで通りの営みを保証する。加えて、千国街道への出入口となる北側に関所を置き、小笠原家の動きを監視するが、越後との商いは制限しない」 
 そのような内容が、晴信と今川義元の連署によって伝えられた。 
 塩尻宿の民はこれを見て安堵し、平穏な日常へと戻る。
 今川家の軍勢が帰還する際には、沿道に見物人たちが出る。
 同じく、晴信が諏訪へ戻る際にも多くの民が手を振り、武田と今川の両家を宿場の大方が歓迎していることを示した。
 上原(うえはら)城へ入ると、信方が晴信に耳打ちする。
「若、二人きりで少し話をできませませぬか?」
「構わぬが……。では、差しで一献、酌み交わすか」
「酒盛りは、お話の後でお願いいたしまする」
「わかった」
 晴信は快く応じ、二人は居室に入り、向かい合って座った。
「若……」
 信方は背筋を伸ばし、姿勢を正す。
「……先日、お話くださった一目惚れの件は、いかがなされましたか?」
 その問いに、晴信は微(かす)かに眼を細め、傅役(もりやく)の顔を見つめる。
「……からこうておるのか、板垣(いたがき)」
「いいえ、いたって真面目に、お訊ね申し上げておりまする」
「まことか?」
「まことにござりまする」
「さようか……」
 小さく溜息をつきながら、晴信は言葉を続ける。
「……余とて、どれほど想いを寄せても頼重(よりしげ)殿の娘とは結ばれぬということぐらい、重々承知している。無理に気持ちを通そうとしても、家中や諏訪の者たちは決して納得すまい。あの麻亜(まあ)という娘や母親にしても同様であろう。なにせ、この身は父親の仇(かたき)だからな。普通に考えれば、己の想いが成就する余地など、まったく見当たらぬ」
「なるほど。御自身の気持ちを諦めねばならぬ御立場であると?」
「そういうことだ。……されど、かような気持ちになったことは、これまで一度もない。理由も言葉にできぬまま、心だけが揺らされてしまう。その理不尽さに対し、己自身が少々戸惑っているだけだ」
「若のお考えは、よくわかりました。されど、あの母子の処遇をこのままにしておくわけにはまいりませぬ」
「……そうであろうな」
「それがし一人ではさして智慧(ちえ)も廻りませぬゆえ、昌俊(まさとし)を含め、ごく限られた者だけでどうすべきかを話し合いました」
 信方の話を聞き、晴信が顔をしかめる。
「……心外だな。加賀守(かがのかみ)にまで余のことを話してしまったのか?……二人だけの話にしてくれと申してあったではないか」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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