六 (承前) ――侵入の策を使って城攻めを行うにしても、まずは自軍の寄手を繰り出せるぐらいまで天の気が回復するのを待たなければならないということか。 晴信(はるのぶ)はそう思いながら立ち上がる。 「伊賀守(いがのかみ)、ためになる話を聞かせてもらった。また、話をしに来てもよかろうか」 「若君様、何を水くさいことを仰せになられまするか。お呼びがありますれば、いつ何刻でも、この信秋(のぶあき)めがお伺いいたしまする」 「そう言ってもらえると助かる。では、引き続き、敵城の諜知(ちょうち)を頼む」 「承知いたしました」 信秋は戻ろうとする信方(のぶかた)を呼び止める。 「駿河守(するがのかみ)殿、先ほどの策は決して虚勢で申したわけではありませぬ。まことに城の奇襲を考えておられるのならば、まずはわれらをお使いくだされ。必ずや、潜入を成功させ、城門を開いてご覧にいれましょう」 「それは心強いな」 「他の方々はいかように考えておられるかは知りませぬが、それがしは若君様の御初陣がよい結果に終わることを心底から願っておりまする。そうなるためにも、力を惜しむつもりはありませぬ」 「わかった。最後まで、よろしく頼む」 信方は物見頭(ものみがしら)の肩を叩き、小さく頭を下げた。 ――こ奴も家中での立場を築くために必死になっているということか。確かに、武田家と跡部(あとべ)の一統には、深い因縁がありすぎたからな。 甲斐の中でも、跡部家は長らく守護代の地位を保ってきた名門である。 しかし、京の公方(くぼう)と鎌倉公方の対立を契機とした争乱の中で、跡部の宗家は守護職の武田家と反目するようになった。その戦いは甲斐の全土に広がり、長禄(ちょうろく)元年(一四五七)の小河原合戦(甲府)や馬場の合戦で、跡部家は武田信昌(のぶまさ)を圧倒した。 ところが、惣領(そうりょう)の跡部明海(あきみ)が寛正(かんしょう)五年(一四六四)に死去した直後、武田信昌は信濃の諏訪(すわ)家を味方に引き入れ、夕狩沢(ゆうかりざわ)の合戦(山梨)で跡を嗣いだ跡部景家(かげいえ)を撃破する。さらに西保(牧丘)の小田野(おだの)城において景家を自害させ、跡部の宗家を滅ぼした。 その時、跡部信秋は分家として信濃の小笠原(おがさわら)家の麾下(きか)にいた。 そして、信虎(のぶとら)が甲斐一国を統一してから、信秋は残った跡部の縁者を率いて、武田家へ帰属することを決めたのである。そうした経緯もあり、家中での立場はまだ脆弱(ぜいじゃく)であり、信秋はその負い目を払拭するために自ら物見頭という難儀な役目を買って出た。