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連載
新 戦国太平記 信玄
第二章 敢為果断(かんいかだん)3 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

   十  

『当家が仲介しております武田晴信(はるのぶ)殿の婚姻について、進展をご報告申し上げまする』
 その一報が今川(いまがわ)義元(よしもと)から届いたのは、河東(かとう)一乱が膠着(こうちゃく)した六月の終わりのことだった。
「相手は当方に寄寓(きぐう)したこともある京の権大納言(ごんだいなごん)、転法輪三条(てんぽうりんさんじょう)公頼(きんより)殿の次女で決まりだそうだ。公頼殿は右近衛大将(うこんえのだいしょう)の職に就き、いずれは内大臣まで上られるらしい。相手にとって不足はなかろう。婚儀に関わる手配りは今川家が進めており、輿入(こしい)れの前祝いとして冷泉(れいぜい)為和(ためかず)殿の歌会を新府で開いてほしいということだ」
 信虎(のぶとら)が上機嫌で大盃を傾ける。
 これも武田家と今川家の盟約がもたらした慶事だった。
「新府で歌会とは、わが娘婿もなかなか粋な計らいをしてくれる」
 主君の言葉に、集まった家臣たちも顔をほころばせる。
 しかし、その中で一人だけ、浮かない面持ちの者がいた。
 家宰の荻原(おぎわら)昌勝(まさかつ)である。
 ――確かに、恵姫(けいひめ)様の輿入れに続く慶事かもしれぬが、京の公卿(くぎょう)家との婚姻とならば、事前に送らねばならぬ結納品の算段からして大変だ。しかも、前祝いの歌会とならば、歌指南への束脩(そくしゅう)、今川家への謝礼など、頭の痛いことばかりじゃ。戦(いくさ)続きで困窮の極みにいる今、いったいどうすればよいのか……。
 昌勝が心配していたのは婚儀にまつわる出費についてであった。
 束脩とは、まさに指南料のことであり、畿内(きない)の荘園を押領されて窮した京の公卿は、鄙(ひな)における和歌(やまとうた)や蹴鞠(けまり)の指南で糊口(ここう)を凌(しの)いでいた。
「おい、勝千代(かつちよ)。なんだ、その顔は。まったく嬉しそうではないな」
 信虎が突然、剣呑(けんのん)な眼差しを向ける。
「……いいえ、嬉しくないなどということはありませぬ」
 晴信は俯(うつむ)き加減で答えた。
 実は最初の婚姻で負った心の疵(きず)がまだ完全には癒えておらず、この婚姻の話に戸惑いを隠せなかった。
「それが正室を迎える目出度(めでた)い婿の態度か。気構えがなっておらぬな」
「……申し訳ござりませぬ」
「まあ、そなたにはこの婚姻の意味など、まだわからぬであろうから、当然のことか。されど、これだけは申しておく。京からの嫁を粗略に扱い、『実家へ帰りたい』などと言わせるでないぞ。よいか、三条家の長女、つまり、こたびの嫁の姉は京の管領職(かんれいしき)、細川(ほそかわ)晴元(はるもと)殿の室であり、これは余が都へ上るための道筋なのだ。決して途絶えさせてはならぬ」
 長男の幸せな婚儀など、どうでもいいという態度だった。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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