十二 天文(てんぶん)九年(一五四〇)の皐月(さつき)、新府に鮮やかな紅白の躑躅(つつじ)が花開く中、飯富(おぶ)虎昌(とらまさ)が晴信(はるのぶ)と信方(のぶかた)のもとへやって来た。 「先日、駿河守(するがのかみ)殿からお誘いをいただきましたゆえ、出陣前のご挨拶に参りました」 虎昌の挨拶に、晴信が答える。 「おお、佐久(さく)への出兵か」 「さようにござりまする」 「出立はいつに決まったのであろうか?」 「明後日にござりまする」 「ならば一献、酌み交わしても大丈夫だな。板垣(いたがき)、飯富の出陣を労(ねぎら)って進ぜたい。御方(おかた)に支度を頼んでくれぬか」 「承知いたしました」 信方は酒肴(しゅこう)の支度に走った。 しばらくして三条(さんじょう)の方を先頭に、侍女(まかたち)たちが酒肴の載った膳を運んでくる。 「御方、飯富に御酒(みき)を」 晴信に促され、三条の方が一献を酌する。 「失礼いたしまする。飯富殿、どうぞ」 「おお、これはかたじけなし。三条の御方様に酒を注いでいただけるとは、何とも面映(おもは)ゆうござりまするな」 飯富虎昌は嬉しそうに盃を干す。 「御方、あとはわれらが手酌でやるゆえ、下がってかまわぬ」 「はい。では、ごゆるりと。失礼いたしまする」 三つ指をついて頭を下げてから、三条の方と侍女たちが退室した。 「いやぁ、御方様は相変わらずお美しや。空薫物(そらだきもの)の良い香りがいたしました。まことに優雅、羨ましい限りにござりまする」 虎昌が世辞を言いながら笑う。 その様を見ながら、信方が後輩の盃に酒を注いでやる。