よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)19

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

    四十 (承前)

 背中を向けた上田原(うえだはら)の北側から、地鳴りのような音が響く。
 それを耳にした途端、甘利(あまり)虎泰(とらやす)の首筋に寒気が走り、全身が総毛立つ。
 ――ここは敵先陣の最奥のはずだ。ということは……。
 甘利虎泰は覚悟を決め、馬首を北に向ける。
 眼に入ってきたのは、夥(おびただ)しい数の旗幟(きし)と蹄音(あしおと)だった。
 丸に上の字。
 ――敵の増援……いや、村上(むらかみ)の本隊と考えるべきか。数は三、四千。これほどの兵をいったいどこに隠していたのか。今までの戦(いくさ)模様からは考えられぬ。これが狙いすました策なのならば、村上義清(よしきよ)、思うた以上の手練(てだれ)か。
 猛将の戦勘がすでに死地に踏み込んだことを告げていた。
 ――無謀とも思える戦法で敵の先陣大将は討ち取ったが、その分だけ、わが騎馬隊の損害は重大であり、多くの配下が深手を負わされている。新手の敵に正面から立ち向かうのは難しい。ならば、今なすべきことは、駿河守(するがのかみ)殿の御首級(みしるし)をなんとしても敵の手に渡さぬことだ。
 瞬時に考えを巡らせた後、甘利虎泰は再び馬首を返し、愛駒の腹を蹴る。
 本来ならば敵陣を強襲した後、最奥から大きく脇へ迂回(うかい)して南側の保福寺道(ほふくじどう)へ戻ることができるはずだった。
 しかし、この状況でそうした策を取れば、大軍に挟撃されることになる。再び敵陣の中央を突破し、南側で戦っている初鹿野(はじかの)高利(たかとし)の足軽隊と合流しなければならない。
「急ぎ戻るぞ! 北側から敵の援軍が来ている!」
 周囲に残っている配下の騎馬隊に命じる。
 だが、行く手を阻もうとする敵兵は、予想以上に多かった。
 愛駒の前に立ち塞がろうとする足軽が叫ぶ。
「止めろ! 大将首だ! 槍衾(やりぶすま)で包め!」
 ほとんどの足軽が闇雲に槍を突き出してくる。
「討ち取れば、寳首(たからくび)だぞ!」
 どの眼にも獲物を見つけた山狗(やまいぬ)の如(ごと)き光が浮かんでいる。
「生かして帰すな! 囲め、囲め!」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number