よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)19

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 晴信の表情が瞬時に変わる。
「全軍でここから退き、神川(かんがわ)を挟んで敵を迎え撃つぞ! 信繁、皆に伝えて撤退を急げ!」
「御意!」
 信繁が踵(きびす)を返す。
「行村、そなたは神川の東にいる鬼美濃(おにみの)と飯富(おぶ)を探し、見つけ次第、われらと合流するように伝えよ!」
「はっ!」
 小山田行村が弾かれたように動き出す。
「昌次、そなたは豊後と伊賀守に、われらは神川の対岸まで退くと伝えよ。そこまで敵とは戦わずに、何とか逃げ延びよと」
「御意!」
 初鹿野昌次も一礼し、愛駒のところへ戻る。
「三科と景房は、引き続き二人の遺骸を守り、後詰まで届けよ」
「はっ」
 三科形幸と広瀬景房が再び二人の遺体を母衣で包み始めた。
 矢継早に命を下した晴信のもとに、加藤(かとう)信邦(のぶくに)と真田幸綱が走ってくる。
「御屋形様、退陣と聞きましたが」
「神川の対岸まで下がるだけだ。そこで村上の本隊を迎え撃つ」
「承知いたしました」
 加藤信邦が頭を下げた。
 その横で、真田幸綱がおもむろに切り出す。
「……御屋形様、小勢でも構いませぬので、それがしにも兵をお預け願えませぬか」
「よかろう。将は多い方がよい。信邦、真田に五百を預けてやれ」
「御意!」
 加藤信邦が頷く。
「有り難き仕合わせにござりまする。必ずや、働きを」
 真田幸綱が深々と頭を下げる。
 こうして村上本隊を迎撃する策は決まった。
 ――悲嘆にくれている暇はない。戦の仇(かたき)は、戦にて返す。
 晴信は眦(まなじり)を決して采配を握り締めた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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