よみもの・連載

信玄

第七章 新波到来(しんぱとうらい)4

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

   八十(承前)

 西上野(にしこうずけ)での首尾は、信玄が抱いていた予想を遥かに上回る成果を上げつつあった。
 ――一徳斎(いっとくさい)は「甘楽(かんら)郡と同時に吾妻(あがつま)郡を制するのが上策」と申しておったが、くしくも、こたびはそのような結果に向かっている。さすがは機を見るに敏な漢(おとこ)よ。先方(さきかた)衆を任せただけのことはある。
 信玄は一人ごちて笑う。
 ――それにしても、義信(よしのぶ)の成長は著しい。この短期間に甘楽郡で見事な足場を築くとは、頼もしい限りだ。ここにきて、川中島(かわなかじま)で踏ん張った甲斐が出てきた。あそこで一敗地にまみれておれば、かような首尾にはならなかったであろう。
 これら武田勢の快進撃に、最も眼を見張っていたのが、他ならぬ盟友の北条(ほうじょう)氏康(うじやす)である。
 昨年の十一月、川中島合戦の結果を知った氏康は、間髪を容(い)れずに武蔵国(むさしのくに)北部を上杉(うえすぎ)輝虎(てるとら)から奪還すべく、松山(まつやま)城と高松(たかまつ)城(秩父〈ちちぶ〉)の攻略に出張った。
 これを知った上杉輝虎は川中島合戦の痛手を省みず、武蔵に柿崎(かきざき)景家(かげいえ)の一軍を差し向ける。
 北条勢は松山城に近い生野山(なまのやま)で上杉勢を迎え撃つべく、野戦に臨んだ。
 その結果、北条勢が柿崎景家の一軍に痛手を負わせ、上杉勢は下野国(しもつけのくに)の唐沢山(からさわやま)城まで撤退せざるを得なくなる。
 一方、北条勢は武蔵と上野の国境まで軍を進め、高松城を降伏させたが、松山城までを陥落させるには至らなかった。
 これら一連の合戦は、武蔵国の要衝である松山城の支配を巡る戦いであった。
 それから一年ほど経っているが、いまだに上杉の手先である太田(おおた)資正(すけまさ)から松山城を奪還するには至っていない。
 そこで北条氏康が考えたのは、西上野に支配を広げた武田勢との共闘だった。
 暦が師走(しわす/十二月)に入った頃、他国との折衝役を任されている駒井(こまい)政武(まさたけ)に北条家からの依頼が届く。
「御屋形(おやかた)様、氏康殿から『武蔵の松山城攻めに援軍をいただけないか』という申し入れがありました。いかがなさりまするか?」
「武蔵の松山城か……」
 報告を聞いた信玄は思案顔になる。
「……高白(こうはく)、北条家は東上野の攻略に手間取っているのか?」 
「まだ河越(かわごえ)城の目と鼻の先に松山城と岩槻(いわつき)城という憂いが残っており、それが障害となって東上野まで手が廻(まわ)らぬのではありますまいか」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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