第七章 新波到来(しんぱとうらい)4
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「兵部(ひょうぶ)、してやれたな……」
「されど、あの岩櫃城を一夜にして抜くとは、やはり一徳斎は並の者ではありませぬな」
飯富(おぶ)虎昌(とらまさ)が感心したように呟く。
「味方の手柄とはいえ、手放しで喜んでいる場合ではないぞ。われらが遅れをとったということだ」
義信は苦い表情で言葉を続ける。
「それだけではない。四郎(しろう)の初陣にしても、あれほど『この身を後見に』とお願いしていたにも拘(かかわ)らず、父上自ら御出陣なさるとは……。それほど、この身には信用がないのか……」
「若、御屋形様は眼に入れても痛くないほど可愛がられていた勝頼様の初陣にどうしても帯同したかったのでありましょう。その気持ちも汲(く)んであげなされ」
「されど、北条家と一緒の戦ではないか。聞けば、河越城には惣領の北条氏政殿だけではなく、大御所の氏康殿と綱成殿も駆けつけておられたというではないか。なにゆえ、父上はさような場にこの身を呼んでくださらなかったのか。すぐ近くの甘楽にいたというのに……」
義信は不満をあからさまにする。
「……それは、甘楽の押さえが重要であると、御屋形様が考えたからではありませぬか」
「甘楽にはそなたもおり、それがしが一千程度の兵を率いて河越城へ行ったとしても、何の問題もなかろう。この身も一緒に信濃へ出張った綱成殿にお会いしたかったし、惣領の氏政殿や大御所の氏康殿とは、まだお会いしたこともないのだぞ。そうした場に武田家の嫡男としておらぬのは、この身の面目が立たぬ。呼んでいただけたならば、何をおいても駆けつけたであろう」
「……確かに、若の仰せにも一理ありまする」
「父上はこの身を軽んじすぎではないか」
「……さようなことはないか、と」
「では、なにゆえか?」
「……それがしに詰め寄られましても」
「氏康殿も若隠居なされて大御所となられたのだ。父上も入道なされたのだから、御隠居なされて、そろそろ、この身に惣領を任せていただくべきではないのか、兵部?」
「……それについては、何とも」
「父上はまことに、この身に一門を任せるおつもりがあるのであろうか」
「そのことについては、一点の疑いもありませぬ。若、お苛立(いらだ)ちはごもっともと思いますが、焦りは禁物にござりまする」
「ふぅ……」
義信は大きく息をつく。
「……焦っているわけではないのだ。なかなか、思うようにならぬ己が歯痒(はがゆ)い。それなりに精進を重ねてきたつもりなのだが……」
「そのことは御屋形様もご存知であり、それゆえ、こうして西上野を若に任せておられるのではありませぬか」
飯富虎昌は主君をなだめる。
傅役の言葉を嚙みしめ、義信が俯(うつむ)く。
必死で己の心の揺らぎを止めようとしていた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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