よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

  三十三

 甲州法度次第(こうしゅうはっとのしだい)。
 差し出された書面は、そのように題されていた。
 晴信(はるのぶ)はそれを手に取り、真剣な面持ちで読み始める。
 その様を、駒井(こまい)昌頼(まさより)が固唾(かたず)を吞んで見つめていた。
 五十五条からなる甲州法度次第、晴信が制定しようとしている分国法の文面を清書したのが、この家臣だった。
 長い沈黙が躑躅ヶ崎(つつじがさき)館の書院を支配する。
 しばらくして文面から眼を離した晴信が長い息を吐く。
「うむ。これならば、よかろう。昌頼、大儀であった」
 その言葉を聞き、駒井昌頼が小さく安堵(あんど)の息をついた。
 甲州法度次第は、被官階級の秩序や掟事(おきてごと)、領国内の国人(こくじん)や地頭の土地所有や年貢収取の制限に始まり、領民の年貢未進や郷村からの逃亡などを禁止し、債権や田畑の所有に関する規定、公事訴訟、喧嘩(けんか)両成敗など多岐の条項にわたっている。
 晴信が岐秀(ぎしゅう)禅師と共に長い時をかけて起草し、領国の秩序維持を法度として明文化しようと試みたものである。
 途中から駒井昌頼が右筆(ゆうひつ)として成文に関わり、何度も手直しされた上に、ようやく清書まで漕ぎつけた。
「……御屋形(おやかた)様、懼(おそ)れながら、ひとつ確認いたしたきことがござりまする」
 恐縮した面持ちで、駒井昌頼が申し出る。
「なんであるか」
「この法度の第五十五条にござりますが、まことにこのままでよろしいのでありましょうや?」
 昌頼が言った条文は、次のようなものだった。 
『晴信、行儀其(そ)の外の法度以下に於(おい)て旨趣相違の事あらば、貴賤(きせん)を撰(えら)ばず目安を以(もっ)て申すべし。時宜に依(よ)って其の覚悟すべきものなり』
 この第五十五条は、晴信自身にもこの法度が適用され、それに反する行為を行えば、身分を問わず申し立てをすることができるという記述になっている。
「ああ、これか。かまわぬ」
 晴信は笑みを浮かべて答える。
「家臣や国人衆、そして領民に法度を課すならば、まずは己自身が率先し、それに従わねばなるまい。法を定むるとは、そういうことであろう」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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