よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「三条の御方様は何も知らされなかったことをひどくお悲しみになり、お暇をいただき、御実家へお帰りになりたいと申されておりまする」
「えっ!?……京の御実家へ」
「はい」
「あ、いや、それは、若もお困りに……」
「では、まず、駿河守様のお計らいにより、わたくしがその側室の方に会いとうござりまする。わたくしから裏方の行儀というものを説いて進ぜまする。いかがにござりまするか?」
「……それがしの一存では、承諾できぬ。やはり、若のお許しをいただかなければ」
「ならば、お許しをもらっていただきとうござりまする。お許しがでるまで、わたくしは諏訪でお待ちいたしまする」
「いやぁ、そんな無理を申されても……」
「筋は通せぬと?」
 常磐の発した「筋」という言葉に、さすがの信方も顔色が変わる。
 何よりも筋目にこだわる武骨者としては聞き流せなかった。
「どうしても筋を通せと申されるのならば、それがしが若に膝詰めで談判いたしましょう。それに関してはお約束するゆえ、常磐殿は新府へ戻って返事をお待ちくだされ」
 信方は決然と言い放つ。
 こめかみに微(かす)かな怒りが浮かんでいた。
 それを見た常磐は、すっと矛を収める。 
「……わかりました。では、お待ちいたしまする。よろしくお願い申し上げまする」
 両手をついて頭を下げてから、三条の方の侍女頭は黙って室から退出した。
 ――やれやれ、女子の執念も侮れぬ……。されど、常磐殿の申すことにも一理ある。麻亜殿の件は、すっきりさせておいた方がよい。それとも、若は三条の御方様に麻亜殿の話をすることに尻込みなされておられるのか?
 信方は苦笑する。
 ――まあ、それがしも含め、なにゆえか女房が最も怖いというのは、漢(おとこ)の性(さが)なのであろう。
 それから数日が経ち、甲州法度の発布が浸透しているかを確認するため、晴信が諏訪を訪れた。
 諏訪大社の者たちとの会合が終わってから、信方と差し向かいで酒を酌み交わす。
「若、法度を定めたいという御念願が叶(かな)い、おめでとうござりまする。岐秀禅師と起草を始めてから、どのくらい経ちまするか?」
「かれこれ十年にはなるか……。最初は手探りで、まことに形になるかどうかさえも定かではなかった。御成敗式目の如(ごと)き分国法を創り上げたい。その思いだけが空回りし、ずいぶんと苦労したが、何とか発布にまで漕(こ)ぎつけた」
「必ず初志を貫徹なさる若の粘り強さには、いつも感服いたしまする。どうぞ」
 晴信に一献を酌しながら、信方が話題を変える。
「ところで、若。先日、隠事をしていたではないかと、常磐殿にこっぴどく叱られました」
 常磐の名を聞いただけで、晴信はすべての状況を察した。
「麻亜の出産のことか」
「さようにござりまする。三条の御方様のご機嫌は?」
「……口もきいてくれぬ」
「ああ、やはり……。ということは、麻亜殿の御懐妊の件を伝えておられなかったと?」
「……話す機を逸してしまった」
「それは若らしからぬ不覚にござりましたな」
「御方には、麻亜のことをうまく話せる気がせぬ。それに話をすれば、麻亜に会わせろと言われるに決まっておろう」
「されど、御側室が御正室にきちんと挨拶をなさるのが筋目というものにござりまする」
「わかっている。ずいぶんと前から、麻亜にも『新府へご挨拶にお伺いしたい』と言われておる。余の踏ん切りがつかなかっただけだ。すべて、この身が悪い」
 晴信は盃を呷(あお)り、苦い表情になる。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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