よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

  三十五

 志賀城を包囲していた晴信の本陣に早馬が駆け込んでくる。
 碓氷峠で物見をしていた跡部信秋(のぶあき)からの急報だった。
「御注進! 碓氷峠を上ってくる敵の援軍と思(おぼ)しき者たちを発見いたしました!」
 蜈蚣(むかで)の旗指物を背負った使番(つかいばん)が片膝をついて叫ぶ。
「数は?」
 晴信が簡潔に訊く。
「目算で五千ほどかと」
「旗印は?」
「竹に二羽飛び雀(すずめ)。加えて、団之内に松竹と見受けました」
「ならば、関東管領の援軍に間違いなかろう」
 晴信は眼を細め、宙を睨む。
 竹に二羽飛び雀は、上杉一門の旗印である。
「若、団之内に松竹は、確か倉賀野党の旗印にござりまする」
 信方が言った。
 団とは軍配団扇(うちわ)を示す言葉であり、これを象(かたど)った旗印は元々、坂東(ばんどう)一円に名をとどろかせた武者一揆(いっき)、武蔵七党が使っていたものである。
 その団扇の左右に松と竹が描かれた紋が倉賀野党の旗印であり、倉賀野家は武蔵七党の児玉(こだま)家の血脈に通じていた。
「惣領の倉賀野行政は昨年の合戦で討死しましたが、倉賀野十六騎と呼ばれる勇猛な家臣たちは生き残ったようにござりまする。おそらく、その者たちが関東管領の命を受け、援軍に来たのでありましょう」
 信方の言葉に、晴信が頷(うなず)く。
「相手にとって不足はない。すぐに軍(いくさ)評定を開こう」
 このような事態を想定し、晴信は家中で最強の将たちを動員していた。
「加賀守(かがのかみ)、碓氷峠を越えてくる敵を迎え撃つには、どの辺りが最適か?」
 晴信が陣馬奉行の原昌俊(まさとし)に訊く。
「峠越えの敵兵には脚を使わせるのが常道と存じまする。上りで疲れを溜めさせ、さらに急坂を駆け下りれば、たいていの兵は膝が抜けまする。それに碓氷峠の一帯には湿地の草叢(くさむら)が広がっており、この季節には恙虫(つつがむし)が湧いておりまする。あれに刺されると高熱が出ることもありますゆえ、決して楽な行軍ではありませぬ」
 恙虫とは壁蝨(だに)の一種で、これに吸着されると深刻な病を発症する。 
「ゆえに、敵兵が峠を下りきり、平地へ出て、ほっとしたところを狙い撃つのがよろしいかと」
「それはどの辺りになるか?」
「碓氷峠を下りたところに小田井原(おたいはら)という窪地(くぼち)がありまする。周囲が小高い丘になっており、敵を待ち伏せするには絶好の場所になっているかと。ここからは二里(八`)ほど北ゆえ、兵を配するのは造作もありませぬ」
 原昌俊は地図を指す。
「逃足を失った敵兵を窪地に誘い込み、高陵から攻め降りて一気に叩くか。確かに、良さそうな場所だな。では、誰が別働隊を率いるか」
 晴信は重臣たちを見回す。
「それがしにお任せくだされ」
 信方が名乗りを上げる。
「高陵からの攻めならば、三方からが基本と考えますゆえ、それがしに加え、鬼美濃(おにみの)と甘利(あまり)の三隊にしていただけませぬか」
「それは最強の布陣であるな。よかろう、関東管領の援軍に二度と碓氷峠を越えたくないと思わせてやるがよい」
 晴信は信方の策を採用した。
「御屋形様、それがしに伏兵を預けていただけませぬか?」
 飯富(おぶ)虎昌(とらまさ)が申し出る。
「敵の退路を断つための伏兵か」
「はい、さようにござりまする。坂道の両脇に兵を潜ませ、峠へ後戻りできぬようにいたしまする」
「よかろう。ただし、飯富。あまり、やりすぎるな。囲師には必ず闕(か)く、だ」
 晴信の言った「囲師には必ず闕く」は孫子(そんし)の教えであり、「包囲した敵は殲滅(せんめつ)を狙わず、必ず少しだけ逃げ道を開けておけ」という意味だった。
 有利な戦いであろうとも、味方の損害を最小限に抑えるための方策である。
「御意!」
 飯富虎昌が頭を下げた。
 こうして関東管領の援軍を小田井原で迎え撃つ布陣が決まった。
 信方、甘利虎泰(とらやす)、鬼美濃こと原虎胤に加え、飯富虎昌が伏兵を率いるという家中最強の面々が揃ったのである。
 ――これならば関東管領の援軍五千であろうとも、負けようがあるまい。
 晴信は志賀城攻囲の本陣で朗報を待つことになった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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