よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

  三十四

 西上野、藤岡(ふじおか)の平井城で、二人の武将が険しい面持ちで談合に臨んでいた。
 一人はこの城の主、関東管領職の山内上杉憲政であり、もう一人が箕輪(みのわ)衆を率いる重臣、長野(ながの)業正(なりまさ)だった。
「……では、上様は何がなんでも志賀城へ援軍を出すと仰せになられまするか?」          
 檜扇(ひおうぎ)の大紋直垂(ひたたれ)を身に纏(まと)った長野業正が苦々しい表情で訊く。
「志賀城の笠原清繁は、余の側近、高田(たかだ)憲頼(のりより)と親戚である。つまり、身内も同然の者が助けを請うてきたのだ。ならば、兵を送ってやらねばなるまい」
 山内上杉憲政も憮然(ぶぜん)とした表情で答える。
「されど、時期をお考えくだされ。われらはまだ昨年の敗戦から立ち直っておりませぬ」
 業正が言った昨年の敗戦とは、河越城夜戦での大敗のことだった。
「あれは油断していたところを北条に不意打ちされただけではないか。われらはそれほどの兵を失っておらぬ。いつまでも昨年のことを引き摺っていたのでは何もできぬわ」 
「これは将兵の士気に関わる問題にござりまする。必勝の態勢で臨んだ合戦で思わぬ負けを喫し、失った兵の数以上に、われらは深い痛手を負わされました。武蔵(むさし)や下野(しもつけ)では櫛(くし)の歯が抜けるように国人衆が北条(ほうじょう)に下っておりまする。今は上野の衆を固める時であり、佐久まで出張ってわざわざ武田と戦を構えるべきではありませぬ」
 業正は息子をたしなめるが如き調子で山内上杉憲政を諫める。 
 実際、齢(よわい)五十七になった長野業正に対し、山内上杉憲政はまだ齢二十五に過ぎず、ちょうど河越城夜戦の傷を負わされた息子の吉業(よしなり)と同じぐらいの年頃だった。
「武田如きに佐久で好き勝手をされてたまるか。志賀城の笠原は、われらのために踏ん張っていると申しても過言ではない。それを見捨てれば、関東管領職としての面目が廃る。業正、そなたは余の面目が武田に潰されてもかまわぬと申すのか?」
「……いいえ、さようなつもりではありませぬ。とにかく、箕輪衆から援軍を出すのは、難しゅうござりまする。それをご理解くださりませ」
 長野業正は蓼(たで)の葉を嚙んだような面持ちで頭を下げる。
「ふん、利のない戦に興味はないと申すか?」
「それは違いまする。今は武蔵から押し寄せる北条に備えるべきと申し上げているだけで……」
「そなたが臆するのならば、もう頼まぬ。別の者に行かせるゆえ」
 山内上杉憲政がそっぽを向いて吐き捨てる。
「……どうか、お考え直しを」
「もう下がってよいぞ、業正」
「出兵はお控えくださりませ」
「くどい!」
「……わかりました。ならば、失礼いたしまする」
 長野業正は両手をついて頭を下げる。
「ところで、懼れながら、ひとつだけ、お訊ねいたしとうござりまする」
「何だ、今さら」
「上様、もしや、御酒(ごしゅ)をお召し上がりになっておられるのでは?」
 長野業正の鋭い視線が山内上杉憲政の両眼を射抜く。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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