よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「……だとしたらば、何なのだ。多少の酒を含んだとて、余が揺らぐことなどないわ」
「大事なお話の前に御酒をお召し上がりになられるのは、どうか、お控えくださりませ。酔いが判断を狂わせることもありますゆえ」
「よ、余計な世話を焼くな!」
「差出口(さしいでぐち)を叩(たた)きまして、まことに申し訳ござりませぬ。ご自愛くださりませ」
 長野業正は再び頭を下げてから謁見の間から退出した。 
「おい、金井(かない)を呼べ!」
 怒りを滲(にじ)ませ、山内上杉憲政が近習(きんじゅう)に命じる。 
 長老格の重臣に諌言(かんげん)されたことで、かえって意地になっていた。
 翌日、関東管領から呼び出された金井秀景(ひでかげ)が平井城を訪れ、憲政から援軍の要請を受ける。
「業正が臆して腰を引いたゆえ、そなたが余の代わりに采配を振ってくれぬか」
「上様の御采配をお預かりするのは、身に余る光栄にござりまする。佐久で武田を退け、志賀城と笠原清繁殿を救ってまいりまする」
 金井秀景は眼を輝かせる。
「つきまして、懼れながら、お願いがござりまする」
「何であるか?」
「昨年の夜戦で行政(ゆきまさ)殿が身罷(みまか)られた後、跡目の為広(ためひろ)殿も幼く、倉賀野(くらがの)は動揺しておりまする。どうか、こたびはそれがしを為広殿の名代、倉賀野十六騎の筆頭に任じ、他の者たちにも出陣を命じていただけませぬか?」
 金井秀景は倉賀野行政が率いた倉賀野十六騎の一員であった。
 平井城の北にある倉賀野城々主、倉賀野行政は山内上杉憲政の重臣の一人であったが、昨年の河越城夜戦で討死(うちじに)している。跡を嗣ぐことになった嫡男の倉賀野為広がまだ幼く、行政を支えてきた倉賀野十六騎が城を守ることになった。
 その中でも金井秀景はこれまで倉賀野行政の側近だった福田(ふくだ)信義(のぶよし)と十六騎筆頭の座を争っていた。
 もしも、今回の援軍で金井秀景が関東管領から采配を預かり、倉賀野十六騎を率いることになれば、自然と筆頭の座につくことになる。
「よかろう。そなたが倉賀野十六騎を率い、佐久から武田を追い出してこい」
 山内上杉憲政は快諾する。
「はっ! 承知いたしました」
 金井秀景は野心を隠すように平伏した。
 倉賀野へ戻った金井秀景は急ぎ十六騎を集め、出陣の支度に奔走した。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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