よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)2

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

  二十九(承前)  

 麻亜(まあ)を支えながら、晴信(はるのぶ)は驚きを隠せない。
 ――なんと、か細い軆(からだ)なのか……。かように小さき背中ひとつ、守れぬというならば、他の何を守れるというのか。
 その思いと同時に、心の奥底に沈めていた恋慕の情が熾火(おきび)のように燃え上がる。
 ……いや、軆に触れてしまったことで、愛おしさが以前よりも遥かに増していた。
「……側に……そなたが側にいてくれる限り、必ず余が守り通してみせる」
「御屋形(おやかた)様……」 
「だから、案ずるな」
 晴信は麻亜を固く抱きしめ、囁きかける。
「……今宵は、ここで過ごすと決めた。かまわぬか?」
「……はい。……嬉しゅうござりまする」
 麻亜は晴信の腕を握り返しながら答えた。
「さようか。余もだ。……では、もう少し話をしよう」
 そう言いながら腕をほどこうとする。
 しかし、軆が思うように動かない。
 ――腕を……離せない。……いや、この温もりを放したくない。
 己の本心が、「大人の振舞をするべきだ」という己の建前を拒んでいた。
 ――ああ、麻亜の想いが溢れ、わが胸に染み入ってくるようだ……。
 同時に、甘酸っぱい痺れにも似た陶酔が、晴信の動きを封じていく。
 ――このまま、時の果てまで流されてもかまわぬ……。
 そんな想いさえ、脳裡(のうり)をよぎる。
 まるで魂魄(こんぱく)の震えが同調するかの如(ごと)く、高鳴る二人の鼓動が重なり合っていく。
 やがて、それがひとつになって互いの首筋で脈打ち、二人は静かな昂揚に包まれた。
 その中で、晴信は麻亜が己と同じ想いを抱いていると確信した。
 そう思えたことで、動揺が静まり、心に落ち着きが戻ってくる。
「そなたのことが、もっと知りたい。もう少し昔の話を聞かせてくれぬか」
 晴信はゆっくりと腕をほどく。
「……はい」
 麻亜も袖を握りしめていた指を開きながら答えた。
 二人は穏やかな面持ちで膳の前に戻り、晴信の問いに応じて麻亜が幼かった頃の想い出を聞かせる。
 ――父がいながらにして、父がいないも同然に育った。そうした意味では、余と麻亜はよく似ているのやもしれぬ。この者もまた、大事なものを失ったまま育ったか……。麻亜のどこか寂しげな横顔は、そのせいなのであろう。
 ひとしきり話を聞き終え、晴信はそんなことを思っていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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