第四章 万死一生(ばんしいっしょう)2
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
麻亜は油に白檀(びゃくだん)の粉末を溶いた塗香を両掌につけ、晴信の背中に塗り込んでいく。白檀には皮膚を浄化し、毒を消す作用があるため、塗香は身を清めるために使われる。
元々は僧侶などの斎戒の習慣だったが、当世においては、香油にした白檀を女人の身嗜(みだしな)みにも用いていた。
――この匂い……。昨夜、麻亜のうなじから薫ってきたものと同じではないか。これは、白檀か。心が静まる、何とも良い香りだ……。
晴信は麻亜の温もりを思い出しながら、大きく息を吸い込む。
「よろしければ、これをお使いくださりませ」
麻亜は背中の塗香を終え、容器を差し出す。
「わたくしは朝餉(あさげ)の支度をしてまいりまする。御屋形様、お雑炊と汁かけ、どちらがよろしゅうござりまするか?」
「……選べるのか」
「はい」
「では、汁かけにしようか」
「畏(かしこ)まりました」
麻亜は嬉しそうに笑い、朝餉の支度に向かった。
残った晴信は上半身に香油を塗り込んでから、立ち上がって寝間着と犢鼻褌を脱ぎ、手布で下半身を拭いてから新しい六尺を締める。それから、用意された帷子に着替えた。
――なんとも行き届いた気配りではないか。何の外連(けれん)もなく、かようなことができるのは、相当に厳しく躾けられ、それに応えてきたのであろう。……あの若さゆえ、余は麻亜を見損のうていたのやもしれぬ。
そんなことを考えていると、襖(ふすま)の向こう側から声が響く。
「失礼いたしまする」
麻亜が戸を開け、朝餉の膳を運び込む。
――ほう。しっかりと一汁三菜が並んでいる。
晴信が見つめた膳の上には、前菜の膾(なます)、平皿と呼ばれる煮物、主菜の焼物に加え、椀の汁物と箸休めの漬物が並んでいた。
麻亜は蒸籠(せいろ)の蓋を開け、蒸したての玄米、強飯(こわいい)を茶碗によそう。
「どうぞ」
「……そなたの膳は、どうした?」
「わたくしは後から、お残りをいただきまする」
「一緒に食べればよかろう」
「いいえ。御屋形様の給仕をしとうござりまする。それに味見をいたしましたゆえ」
麻亜は微笑する。
「さようか……。では、遠慮なく。いただきまする」
箸を挟んで両手を合わせてから、晴信が膾に手を付ける。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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