よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)14

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

  二十五 (承前)

 ――われらは頼重(よりしげ)殿の自害を知っているゆえ、当然の話の運びと思うが、何も知らされておらぬ禰々(ねね)には、やはり奇異に聞こえたのやもしれぬ。少し話を急ぎすぎたか……。
 晴信(はるのぶ)は困ったように頭を搔(か)く。
 その気配を察したかのように、禰々が呟く。
「……頼重殿に……お会いしとうござりまする」
 妹の言葉が、さらに晴信の動揺を誘う。
「そ、それは無理だ、禰々。先ほども申したように、頼重殿は自らの責を認め、蟄居(ちっきょ)している身なのだ。勝手に外へ出ることも自ら禁じている。武士(もののふ)というものは、己の犯した罪と進んで向き合わねばならぬ。惣領(そうりょう)ともならば、なおさらのことだ。気持ちは察するが辛抱してくれぬか」
「……いつになれば……お会いできるのでしょうか?」
「いつという日時は、約束できぬ」
 兄の答えに、妹の背中が小さく震えた。
 それを見た晴信は小さな溜息(ためいき)をついてから、静かな口調で語りかける。
「禰々、察してくれ。当家に対する頼重殿の裏切りは、決して看過できるものではなかったのだ。そのために争いが起こり、責任が己にあるということを、頼重殿がやっと理解してくれた。その償いとしての蟄居であり、期限のない謹慎である以上、惣領としての地位も降りなければならぬ。それが武門における動し難い理(ことわり)というものなのだ。されど、諏訪(すわ)の主(あるじ)がいつまでも不在というわけにはいかぬ。そのために実子である寅王丸(とらおうまる)を新たな惣領として擁立することに決めたのだ。頼重殿のことは、そなたにとって辛いことかもしれぬが、今は寅王丸のことだけを考えてくれぬか」
 話の間中、禰々は震え続けていた。
 晴信は息を詰めて妹の様子を見つめている。
 二人は奇妙な沈黙に縛られていた。
 その呪縛を打ち破るように、禰々が寝返りを打つ。
「……やはり、頼重様は……もう、この世におられぬのでござりますね」
 そう言った妹の顔を見て、晴信は息を吞み、軆(からだ)を強ばらせる。
 禰々の頰は痩せこけ、眼も異様に窪(くぼ)んでいた。晴信の記憶にある妹の面相とはまったく違っており、同じ人物とは思えないほどだった。
 嫁ぐ直前の禰々は、ふっくらとした頰をしており、笑顔が愛らしく見えた。しかし、今はまるで飢饉(ききん)に襲われた村の童(わらわ)のように肉が削げ落ちている。おそらく、食物をまったく口にしていないのだろう。
 ただ、その双眸(そうぼう)は泪(なみだ)に濡(ぬ)れ、怨念を感じるほど鬼気迫る光を放っている。
 ――こ、これほどの容態であったとは……。
 この時初めて、晴信は己の認識の甘さに気づいた。同時に母親の危惧をやっと理解する。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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