第三章 出師挫折(すいしざせつ)14
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
妹の激白が耳の奥にこびりつき、晴信の心気はささくれだっていた。
やり場のない苛立(いらだ)ちが胸の裡(うち)で煮えたぎっている。それが溶岩の如(ごと)き赤黒い怒りに変わっていくのに、さほどの時は要さなかった。
――元凶は頼重をはじめとする諏訪の者どもの裏切りにある。逡巡(しゅんじゅん)している暇はない。これ以上、当家を侮らせぬためにも、こたびは謀叛人(むほんにん)どもを容赦なく叩き潰す! そして、誰に何と謗(そし)られようと、諏訪を支配下に置いて直轄する!
晴信はそう決心する。
己の怒りを高遠(たかとお)頼継(よりつぐ)らに向ける躊躇(ちゅうちょ)も捨てた。
それから寅王丸の様子を見に行く。
信方の妻である藤乃(ふじの)が乳母頭(がしら)を務め、数名の若い乳母と侍女を束ねている。
「藤乃、寅王丸の様子はどうであるか?」
「あ、これは若君様……いえ、申し訳ござりませぬ、御屋形(おやかた)様」
「どちらでも構わぬ。童の頃を知られている、そなたに御屋形様と呼ばれるのは、ちと面映ゆくはあるがな」
晴信は苦笑まじりで言う。
「寅王丸様はお元気にござりまする。乳もよくお飲みになりますし、夜泣きもあまりいたしませぬ。とても、ご機嫌が良うござりまする」
「さようか。明日は諏訪までの移動が長いゆえ、それだけは気を付けてくれ」
「はい。承知いたしました。四方輿(よもごし)で揺らさぬように担いでまいりまする」
「よろしく頼む」
晴信は甥子(おいご)の無事を見届けてから床についたが、なかなか寝付けなかった。
翌朝、少し寝不足ぎみで若神子城を出立し、夕刻前に諏訪の上原(うえはら)城に到着する。待ち構えていた信方らの家臣と合流し、すぐに評定を開いた。
「状況を報告してくれ、板垣(いたがき)」
「はっ。上原城に攻め寄せてきました矢嶋(やじま)満清(みつきよ)の軍勢は、飯富(おぶ)と昌頼(まさより)が撃退し、諏訪湖の西岸まで押し戻しました。その後、矢嶋は様子を窺(うかが)っていましたが、われらの軍勢を見て、対陣を諦めたのか、藤澤(ふじさわ)頼親(よりちか)の福与(ふくよ)城がある南西へと潰走いたしました。今はかの城で籠城しておりますが、いつでも城攻めができるように支度は調えてありまする」
信方は報告を続ける。
「一方、高遠頼継の軍勢にござりますが、われらが先んじて宮川(みやがわ)の西岸まで封鎖しましたゆえ、辰野(たつの)の辺りまで後退し、様子を窺っておりまする。こちらも追撃の支度は調っており、御下命があれば、それがしが自ら高遠頼継を討ち取るつもりにござりまする。とりあえず諏訪周辺の敵はすべて、こちらがほぼ無傷で捌(さば)いており、首尾は上々とぞんじまする」
「さようか。皆、よくやってくれた」
晴信は労いの言葉をかけた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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