よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)14

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 その尖(とが)った切先を己の喉元に向け、禰々は晴信を見つめる。
「わかった。わかったから落ち着いてくれ。兄はそなたの邪魔などせぬ」
「ならば、そこを通して」
「わかった」
 晴信は半身になり、後ろに下がる。
 禰々は己の喉に簪を突きつけたまま、よろけるような足取りで襖戸(ふすまど)まで進もうとした。
 その刹那だった。
 晴信は素早く身を翻し、妹の両手を押さえる。
「いやっ!……放して!」
 禰々は兄の手を振り払おうとする。
「これを捨てなさい!」
 晴信は簪をもぎ取ろうとした。
「いやぁ!」
 禰々は軆をぶつけ、怯(ひる)んで手を放した晴信を睨(にら)む。
 簪を握った両手を振り上げ、倒れ込むように兄の肩口に振り下ろした。
 切先が己の方に迫ってくる様が、晴信には時を引き延ばしたようにゆっくりと見えていた。
 ――刺して気が済むのならば、刺すがよい。
 そんな言葉が脳裡に浮かんでいた。
 禰々が振り下ろした簪の切先が、晴信の左の肩口に突き刺さる。
 そう観念していたが、わずかな痛みが走っただけで、切先は装束すらも貫いていなかった。そこまでの力も禰々には残っていなかったということである。
 その事実を知った途端、胃の腑(ふ)から熱いものがこみ上げ、晴信は思わず嗚咽(おえつ)を漏らしそうになる。それをかろうじて堪(こら)え、両手で妹の軆を抱き寄せた。
 腕の中で、禰々は喉を鳴らし、過呼吸を繰り返していた。
「……大丈夫だ、禰々。落ち着くのだ。ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐くのだ。何も心配はいらぬ」
 晴信は妹に囁(ささや)きかけながら背中をさすってやる。
 荒い呼吸を繰り返しながら、禰々は哭いていた。
 それが収まるまで、晴信は身動(みじろ)ぎもしない。簪は肩口に突き立てられたままだったが、気にもならなかった。
 やがて、禰々の過呼吸が収まってくる。握っていた簪を放し、力なく頽(くず)れそうになった。
 晴信はそれを支え、妹を蒲団のあるところまで導き、軆を横たえさせる。なすがままに軆を横たえた禰々に蒲団をかけてやった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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