よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)14

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 嘘つき。
 その言葉が胸に突き刺さり、晴信はつい声を荒らげてしまう。
「聞き分けのないことを申すな!」 
 その一喝に首を竦(すく)め、禰々は両眼を見開いたまま再び泪を流し始める。蒲団に軆を倒し、妹はさめざめと哭(な)き始めた。
 それを見て、晴信は我に返る。
「……す、すまぬ。……大きな声を出してしもうた。そなたを責めるつもりではなかったのだ。許してくれ」
 晴信は背中を摩(さす)ろうと手を伸ばすが、その気配を察した禰々が叫ぶ。
「触らないで!」
 強い拒絶に、晴信は手を止め、所在なさげに項垂(うなだ)れる。
「……結局、兄上もお父上様と同じ! 話を聞きたいと猫なで声を出すくせに、禰々が何か答えようとすると、『生意気を申すな! 聞き分けのないことを口にするでない!』さように怒鳴るだけ。どうせ、お父上様も、兄上も、女子(おなご)など他家への質にしかならぬと思うておられるのでありましょう」
 禰々の泪が止まらない。
「されど、頼重様は違いました。いつも禰々の話を真剣に聞いてくださり、どれほど愚かな問いを発しても、親身な御言葉で答えてくれました。普段から、『そなたは武田からの質などではなく、大切な正室だ』と仰せになり、労(いたわ)ってくださりました。寅王丸も授かり、生まれてこの方、あれほど倖(しあわ)せを感じたことはありませぬ。なのに、なにゆえ、兄上は禰々から頼重様を平気で奪えるのでありましょう」
 妹の悲痛な問いに、返す言葉もなかった。
「……しかも、それだけでは飽き足らず、兄上はわらわから寅王丸まで奪おうとなさる。……頼重様。……寅王丸と三人で、あれほど倖せであったのに。やっと……やっと武田の呪縛から逃れ、諏訪の女として生きられると思うたのに」
 その言葉に、晴信は愕然とする。
「……武田の……呪縛。……さように、哀しきことを申すな、禰々。そなたが物心ついた頃から、母上はわれら兄妹を分け隔てなく育ててくれたではないか。そなたの言葉は母上を冒涜(ぼうとく)するものだぞ」
「母上様には、心から感謝しておりまする。されど、兄上は何もおわかりになっておられませぬ。側室の子でありながら、兄上たちと同じように扱われることが、どれほど息苦しく、どれほど忍耐を必要とするのか、わかっておられませぬ。母上様は禰々に兄上たち以上の愛情を注いでくださりました。それは血が繋がっておらぬからのこと。禰々を卑屈にさせまいと母上様がお気を使ってくださればくださるほど、本当は心が痛んでおりました。それでも、他家へ質として嫁ぐ日まで良い娘でいなければ、母上様を悲しませてしまう。だから、口を噤(つぐ)み、笑っていなければならない。そんな日々は苦しゅうござりました。父上様からも、政(まつりごと)の道具としてしか見られていないことはわかっておりました。実の母親の顔も知らぬ身にとって、武田家の中にまことの居場所などありませぬ。その気持ちは、嫡男として生まれた兄上にはわからぬと思いまする」
「……禰々」
「諏訪へ嫁いでから、すべてが晴れがましく変わったのに……。頼重様に愛(め)でられ、寅王丸が生まれ、やっと、まことの居場所が見つかったのに……。兄上は、そのすべてを禰々から奪いました! そんなことができるのは、腹違いの妹など、どうなろうと平気だからではありませぬか!」
 顔を上げ、髪を乱しながら禰々が叫ぶ。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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