よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)14

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 室内に、すすり哭きの微(かす)かな声だけが響く。
「今、薬師(くすし)を呼ぶゆえ、少し休むがよい」
 晴信はそれだけを言い、畳の上に落ちた簪を拾い、懐に収める。
 戸を開け、縁側に正座している薬師に声をかけた。
「……余のせいで妹が気持ちを乱してしまったようだ。何か、気の休まる薬を処方してくれぬか」
「承知いたしました」
「侍女(まかたち)を呼んでくるゆえ、それまで様子を見ていてくれ」
 晴信は足早に寝所を後にし、母親の処へ向かった。
「母上、やはり話を急ぎすぎたようにござりまする」
「……さようですか」
 大井(おおい)の方(かた)は心配そうに息子を見つめる。
「だいぶ取り乱しておりますゆえ、側に侍女を付けてもらえませぬか」
「それならば、わたくしが面倒をみましょう」
「では、お願いいたしまする。それがしは寅王丸を連れ、諏訪へ向かわねばなりませぬゆえ、後の事は信繁(のぶしげ)に頼んでおきまする」
 険しい表情の晴信を見て、大井の方は頷(うなず)く。
「わかりました」
「すぐに信繁を来させまする」
 晴信はそう言い残し、今度は弟の処へ向かう。
「信繁、少しよいか」
「はい、兄上」
「実はな……」
 晴信は先刻のことを手短に話す。
 妹の乱れ方を聞き、信繁は驚きを隠せない。
「……これから余は諏訪へ向かわねばならぬが、そなたは禰々の様子を見ていてくれぬか。外へ出ぬよう、見張りをつけた方がよいかもしれぬ」
「わかりました。……兄上、諏訪へは寅王丸も一緒に?」
「ああ、致し方あるまい。ここで諏訪の者たちに示しをつけておく」
「寅王丸は大丈夫でしょうか」
「幾人かの乳母を付けて、万全の態勢で行くゆえ大丈夫だ」
「さようにござりまするか」
「上伊那(かみいな)の者どもを駆逐するまで戻れぬゆえ、留守を頼む」
「承知いたしました」
「では、行ってくる」
 いつになく殺気立った晴信の後ろ姿を、信繁は黙って見送るしかなかった。
 支度に一日を費やし、九月十九日に晴信は寅王丸を擁して出陣する。その日のうちに若神子(わかみこ)城へ入り、信方(のぶかた)に遣いを出した。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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