よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

   二十一 (承前)

 日没間近になった頃、原(はら)虎胤(とらたね)の一隊は先達(せんだつ)城へ戻る。
 ――これだけ煽(あお)ってやれば、否が応でも警戒の眼もわれらの夜襲に向く。
 夜が更けるのを待ち、晴信(はるのぶ)のもとへ原虎胤がやって来た。
「御屋形(おやかた)様、それでは夜襲に行ってまいりまする。後のことをよろしくお頼み申し上げまする」 
「美濃守(みののかみ)、武運を祈る。されど、くれぐれも命は惜しんでくれ」
「有り難き御言葉。では、後ほど」
 虎胤は左の掌に右の拳を当て、深々と晴信に頭を下げる。
 それから隣にいた原昌俊(まさとし)に向かって言った。
「こたびは、小笠原(おがさわら)を諏訪湖(すわこ)まで追い落とすと申した、そなたの気概に乗らせてもらうことにする」
「頼りにしているぞ、鬼美濃」
 原昌俊は虎胤の右肩を摑(つか)みながら頷(うなず)く。
「お任せあれ」
 そう言い残し、原虎胤が率いる五百騎は夜陰に紛れて城を出る。
 先達城から小笠原の野戦陣までは一里半(約六`)ほどであり、騎馬の速歩(はやあし)ならば四半刻(三十分)もあれば到着できた。
 しかし、原虎胤は気配を消した常歩(なみあし)で進み、敵陣の篝火(かがりび)が見える処(ところ)まで近づく。
 そこから、百騎が先行し、襲歩(しゅうほ)で小笠原の陣に迫る。騎馬武者たちの右手には縄で括(くく)った油壺が握られ、それが次々と陣内に投げ込まれた。
 間髪を入れず、松明(たいまつ)を手にした百騎が発し、逆茂木(さかもぎ)を掠(かす)めながら火を投げ込んでいく。割れた壺から流れ出た油に松明の火が燃え移る。
 そうなってから初めて、敵陣の不寝番が騒ぎ始めた。
 原虎胤は自ら残りの三百騎を連れ、指呼の間まで敵陣へ寄せる。
「撃ち込め!」
 その合図とともに、馬上から火矢が放たれた。
 様子を見ようとしていた敵兵の幾人かにその矢が当たり、悲鳴が上がる。残りの矢は敵陣の幔幕(まんまく)に突き刺さった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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