第三章 出師挫折(すいしざせつ)5
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
飯富虎昌は松明の灯りで円を描き、正面に控えていた原昌胤の一隊に奇襲の成功を伝える。
「よし、兵部(ひょうぶ)がやってくれたぞ! われらも続け!」
原昌胤は槍を振り、愛駒を発進させる。
騎馬隊も敵陣へ攻め入るが、早馬の一騎だけが先達城へ戻り、状況を報告した。
「ここまでは策通りに進んだ。われらも打って出るぞ!」
晴信はすでに支度を調えていた。
「全軍で一気に瀬沢(せざわ)の敵陣を落とし、茅野(ちの)まで攻め入る!」
愛駒に跨(また)がった晴信が采配を振る。
原昌俊の一隊を先頭に、四千余の武田勢が北西に向かって進軍を開始した。
この時、瀬沢の小笠原先陣には怒号と馬の嘶(いなな)きが響きわたり、敵兵たちは武田の騎馬隊に追い立てられ、本陣がある北西の茅野に向かって逃げ始めていた。
しかし、その視線の先にも忽然(こつぜん)と黒い影が立ち塞がる。
退路に廻り込んでいた板垣信方の一隊だった。
「討ち取れい!」
槍を一振りし、信方が命じる。
槍足軽たちは敵を包むように広がり、逃げようとする敵兵を容赦なく仕留めた。
逃場を失った小笠原の兵たちは先陣に戻ろうとするが、逃げてくる味方と鉢合わせとなり、完全に我を失っている。
その様を見た信方が口唇の端で笑う。
「よし、闕(か)けよ!」
命じられた足軽が、なんと退路の一角を開ける。
その穴を見つけた小笠原の兵がわれ先にと殺到した。
ある程度の敵兵を逃した後、再びその隙間を閉じ、信方の一隊は退路を封じる。残りの敵を討ち取り、晴信の到着を待つためだった。
『囲師(いし)には必ず闕き、窮寇(きゅうこう)には迫ることなかれ』
これも孫子(そんし)の教えである。
囲師必闕(ひっけつ)。包囲した敵軍には逃げ道を開けておけ。
窮寇勿迫(ぶつはく)。窮地に追い込まれた敵軍を攻撃し続けてはならない。
やはり、孫子の兵法第七、軍争篇第四節に記された用兵術である。
退路を失った兵は「窮鼠(きゅうそ)、猫を嚙む」が如く、決死の状態で立ち向かってくる。それでは勝ったとしても自軍の損害が甚大なものになる怖れがあった。
そこで包囲した敵に一カ所だけ逃げ道を与えてやり、反撃の力を削ぐのが妙手だと説かれている。
しかし、これはあくまでも基本となる法であり、実戦においてはもっと複雑に運用されている。信方が敵兵の一部を逃したのは、敵の反撃を緩和するためだけではなく、先陣の潰滅をあえて小笠原の本隊に知らしめるためだった。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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