よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 そして、晴信の本隊が瀬沢の先陣に到着する。武田勢はあくまで逆らう敵兵だけを討ち取り、素直に投降する者は捕縛に留めた。
 戦いの大勢が決した後、晴信は将兵たちの無事を確認する。幾重にも敵を欺く奇襲の策が功を奏し、自軍の損害は最小限に抑えられていた。
 それから、待っていた信方と話し合う。
「板垣、この後も策通りでよいか」
「はい。変更の必要はないかと」
「すぐに追撃を?」
「ええ、それがよいと思いまする。三十あまりの敵足軽を逃がしており、ここから茅野までは、四里(約十六`)ほど。走って逃げた者は、早ければ一刻半(三時間)ぐらいで本陣へ辿(たど)り着くと思われまする。騎馬の速歩ならば、半刻で追いつきまする。敵の本隊を叩(たた)くのに、ちょうど良き頃合いかと」
「では、足軽隊だけをここに残し、騎馬の者はすべて追撃に出よう」
 晴信は眦(まなじり)を決して言う。
「御意!」
 信方が追撃を触れ、騎馬隊だけが集結し、再び臨戦の態勢が取られる。
 足軽を率いていた信方や飯富虎昌も騎馬に乗り換え、追撃隊は三千ほどになった。
 瀬沢で足軽隊を率いる後詰(ごづめ)を命じられたのは、老将の諸角(もろずみ)虎定(とらさだ)である。
「おい、兵部。御屋形様を頼むぞ」
 諸角虎定が先ほどまで同じ隊にいた飯富虎昌に声をかける。
「お任せくだされ、諸角殿。後のことはよろしくお願いいたしまする」
「おう。ついでに、後腐れなきよう、小笠原長時(ながとき)の首級(しるし)を取ってまいれ」
 疵面(きずづら)の老将がにやりと笑う。
「できうれば」
 不敵な笑みを浮かべ、飯富虎昌が頷く。  
 精鋭の騎馬武者たちを前に、晴信が追撃の要諦を確認する。
「これから一気に小笠原本陣を叩く。敵はまだここが落ちたことを知らず、追撃もわかっておらぬであろう。逃げた敵足軽があと半刻もすれば、茅野の本陣に辿り着くであろう。つまり、小笠原長時が先陣の潰滅を知ったと同時に、われらが攻め入るということだ!」
「おう!」
 一同は気勢を上げる。
「今後、小笠原が簡単に諏訪へ入れぬよう、われらの恐ろしさを味わわせてやるがよい!武田の故地へ土足で踏み入ったことを後悔するようにな!」
「おう!」
「されど、深追いは禁物だ。追い廻すのは、上原(うえはら)城の辺りまででよい。帰師(きし)には遏(とど)むることなかれ。そういうことだ!」
「おう!」
「では、いざ、参る!」
 晴信は北西に向かって采配を振る。
 原虎胤と飯富虎昌の隊が先を争うように駆け出す。
 それに続き、信方の一隊、晴信と原昌俊の本隊が動き出した。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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