第三章 出師挫折(すいしざせつ)5
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
すでに寅(とら)の上刻(午前三時頃)を過ぎ、陽が昇るまであまり時間がない。辺りが昏(くら)いうちに攻め入るべきだった。
原虎胤と飯富虎昌の隊が茅野の手前にある上川(かみかわ)に差しかかった頃、先陣から逃げ出した敵の足軽が這々(ほうほう)の躰(てい)で小笠原の本陣に着こうとしていた。
「……はぁはぁ……ご……ちゅう……しん」
息を切らしながら、敵足軽が小笠原の番兵に駆け寄る。
「何だ、騒々しい! うぬらは、どこの者ぞ?」
「……お、おがさわら……みかた……せ、ざわ……瀬沢の先陣から……に、逃げてきましただ」
「なに!?」
「……先陣が……武田に、や、よ、夜討されて……それが信じられねえほどの大軍で……あっという間に、か、囲まれて」
「信じられぬほどの大軍だと?……本日の夕刻にあった報告では、敵は五百ほどの先鋒(せんぽう)隊だったと聞いたが?」
小笠原の番兵が疑いの眼を向ける。
「い、いや、それは囮(おとり)だったようで……夜になって……驚くような数の兵が、山裾から攻めてきて……その、背後にも廻られ……わしらは囲みを破り、命からがらに逃げてきましただ」
「して、先陣の者たちは?」
「……た、たぶん」
敵足軽が地面に両膝をつきながら黙り込む。
「たぶん、何だ?」
「……ぜん……めつ……で、ねえかと」
「ぜ、全滅?……まさか、さような大軍がどこから。……伏兵か。……数は、おおよその数はわからぬのか?」
「……わ、わかりません」
「なんということだ……」
番兵は思わず立ち竦(すく)む。
――武田の伏兵が得体の知れない大軍で先陣を全滅させた?
そのように思うと背筋が凍りついた。
「あっ!……お、御大将にすぐ報告をせねば。そなたらも付いてこい」
小笠原の番兵がそう言った刹那である。
地鳴りのような音が聞こえ、それが次第に近づいてくる。
夥(おびただ)しい数の蹄音(あしおと)だった。
少なくとも、怖れを抱いた小笠原の番兵には、そうとしか思えなかった。
続いて、風を切る鋭い音が響き、次々と火矢が飛んでくる。
この陣に迫った原虎胤と飯富虎昌の隊が、馬上から放った最初の一撃だった。
「よ、夜討じゃ……武田の夜討じゃあ! せ、先陣が破られたぁ!」
悲鳴にも似た声を上げながら、小笠原の番兵が幔幕裡(うら)に向かって走り出した。
その時すでに、武田の騎馬隊は敵本陣の周囲に展開し、次々と火矢を放っていた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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