よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「板垣、われらも先達城まで退き、周辺の拠点を少し強化しておこう」
「承知いたしました。こたびはずばりと策が当たり、完勝にござりましたな」
 信方は笑顔を見せる。
「ああ、そうだな。孫子の教えがここまで実戦に即していると感じられたのは初めてだ。まだまだ応用の仕方があると痛感した」
「まことに。絶妙の采配にござりました」
 信方は手放しで誉(ほ)めた。
 思えば、晴信が己の意思で采配を振るうのは初めてのことだった。
 初陣はあくまでも父や家臣たちによってお膳立てされた戦いであり、そこには自由も責任もなかった。弟の初陣では留守居を命じられ、何もできていない。
 いわば、今回の合戦が真の意味で晴信の初陣だとも言えた。
 敵に思わぬ進軍を許しはしたが、後の先を取るために戦いを即断し、家臣たちと練った策で虚勢を張った敵の裏をかき、先手必勝に持ち込んでいる。そのことごとくが、孫子の兵法に即するものだった。
 ――この戦(いくさ)は確かに完勝で終わった。されど、大事な問題が解決したわけではない。頼重殿とて、このままで済むとは思うておるまい。
 微(かす)かに眉をひそめ、晴信が黙り込む。
 勝利の喜びがなかったわけではないが、重圧はさらに高まっていた。
 ――今後、信濃(しなの)勢といかように向き合うていくか、真剣に考えねばならぬ。 
 先達城の櫓(やぐら)から北西の方角を見つめ、晴信は奥歯を嚙みしめる。
 そこには新たな争乱の気配が漂っているように思えた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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