第七章 新波到来(しんぱとうらい)
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
七十八
心の奥深くに、二筋の大きな傷が刻まれている。
瞑目(めいもく)した信玄は、胸の裡(うち)ではっきりとその痛みを自覚していた。
傷のひとつは昨年、諏訪御寮人(すわごりょうにん)が突如として身罷(みまか)った時に負ったものである。
そして、もうひとつはつい先月、川中島(かわなかじま)の戦場(いくさば)において実弟の信繁(のぶしげ)を失った時の傷だった。
ふたつの傷口は決して塞がることがなく、まだ見えない血が生々しく溢(あふ)れ出ている。
それが信玄に耐えがたい痛恨を与え、同時に抜き去りがたい憂愁をもたらしていた。
そんな中、弟の初七日が済み、故人の冥福を祈りながら喪に服す「忌服(きふく)」の期間に入った。
忌中は穢(けが)れを祓(はら)い、家に籠もって外出はしない。ただひたすら護摩法の祈禱(きとう)を行いながら、信玄は己の本心と向き合った。
無心になる必要もなければ、煩悩を振り払うこともしなかった。ただ服喪を続けながら、浮かんでは消えていく己の想(おも)いに身を委ねる。
――なにゆえか……。いつまでも、どこまでも、一緒に生きていきたいと思う者ほど、突然、何の前触れもなく余のもとを去ってしまう。しかも、その死をまだどうしても受け入れることができない己がここにいる。眠りから目覚めるたびに思う。二人の死は先刻の夢幻(ゆめまぼろし)だったのではないか、と。されど、日常へ戻るにつれ、於麻亜(おまあ)と信繁の不在が明らかになっていく。この身はこれほどまでに二人の魂魄(こんぱく)の震えを感じているというのに……。
浄衣(じょうえ)に身を包んだ信玄は、一人で潔斎(けっさい)の間に籠もり、鉤召(こうちょう)護摩法を行っていた。
鉤召とは、諸尊善神を勧請(かんじょう)し、己が愛した者たちを召し集めるための修法である。
神妙な面持ちで願目を記した護摩木を手に取り、焔(ほのお)を上げる護摩壇にくべていく。
――二人はまだ己の心奥で生きている。さような綺麗事(きれいごと)を思い浮かべたくないほど、心が引き裂かれている。だから、せめて時を戻せたならば……。そんな童(わらわ)の如(ごと)き詮方ないことまでを本気で思ってしまう。
諏訪御寮人と弟の死がひとつに重なり、後悔を伴った様々な想いが脳裡(のうり)を巡る。
特に信繁の死は思っていた以上に深い悔恨を信玄に与えていた。
――信繁、すまぬ。余がもっと深慮を持っていれば、そなたが先に命を費やし尽くすことはなかったはずなのに……。すべてはこの身の至らなさゆえだ。まことに、すまぬ……。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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