よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)12

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

  二十五 

 諏訪(すわ)の茶臼山(ちゃうすやま)本城で、板垣(いたがき)信方(のぶかた)が跡部(あとべ)信秋(のぶあき)から報告を受けていた。
 去る七月四日、諏訪頼重(よりしげ)が桑原(くわばら)城で降伏してから、信方はしばらく諏訪の奉行をするために残っていたのである。その下で、跡部信秋が諜知(ちょうち)を担っていた。
「伊賀守(いがのかみ)、各所の様子はどうだ。何か気になることはないか?」
 信方が確認する。
「いいえ、特段ありませぬ。大方の状況は落ち着いていると思いまする」
「上伊那(かみいな)もか?」
「はい。高遠(たかとお)頼継(よりつぐ)殿も自城へ戻られておりまする」
 跡部信秋が言ったように、諏訪頼重との戦(いくさ)が終わってから、晴信(はるのぶ)は諏訪上社前宮(まえみや)がある宮川(みやがわ)を区分の地とした。
 そこから西側を高遠頼継の所領とし、東側は武田家が領有するという取り決めが行われている。
「逆に、上社、下社の様子はいかがにござりまするか?」
 今度は信秋が訊ねる。
「上社は守矢(もりや)頼真(よりざね)、下社は金刺(かなさし)堯存(たかのぶ)にまとめてもらい、諏訪神党の神人(じにん)衆はどちらかに従うことになった。もう少し時がかかるやもしれぬが、良い方向には向かっているだろう」
「さようにござりまするか」
「他に何か気になることはないか、伊賀守?」
「二つほど、妙な話がありまする」
「何であるか?」
「ひとつは、前(さき)の海野平(うんのたいら)合戦において、滋野(しげの)一統に属していた禰津(ねづ)元直(もとなお)の話にござりまする。われらに敗れた後、かの者は海野棟綱(むねつな)を見限り、諏訪頼重の傘下に入っておりました。されど、こたびのことを聞きつけ、禰津元直殿が御屋形(おやかた)様とお話ができぬかと申し入れてまいりました」
 信秋は小県(ちいさがた)郡の国人衆であった禰津元直について話をした。
「禰津の狙いは何であるか」
「諏訪の傘下ではなく、武田家に臣従できぬか、ということにござりまする」
「小県の国人衆が当家に臣従か……」
 髭(ひげ)をまさぐりながら、信方が思案する。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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