よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

   七十三 

 香坂(こうさか)昌信(まさのぶ)が越後(えちご)勢の本陣に突入する半刻(一時間)ほど前のことである。
 黎明(れいめい)前の天地が、紫苑(しおん)の紗(うすぎぬ)に包まれていた。
 川中島(かわなかじま)一帯を包む朝靄(あさもや)が大気の流れに乗って蠢(うごめ)き、それが夜更け過ぎの紫色に染まり、まるで天女たちが地上でたなびかせる薄衣(うすぎぬ)の如(ごと)く見えた。
 その咫尺(しせき)も定かならぬ靄の中を、一人の武将が海津(かいづ)城から広瀬(ひろせ)の渡しへと歩いてゆく。このところ毎日、陽が昇る前から八幡原(はちまんばら)の状況を確かめていた武田の先陣大将である。
 ――盆地を囲む山と河が複雑な地形を象(かたど)っているせいか、この川中島を包む靄はかなり深く、しかも実に複雑な動きをしている。
 信繁(のぶしげ)は静かにたゆたう紗の層を見つめる。
 ――いや、靄というよりも、むしろ濃霧と言うべきか……。
 この朝靄のほとんどは、犀川(さいがわ)と千曲川(ちくまがわ)の河面から立ち上っているものだった。
 昼間に暖められた水面へ冷たい夜気が入り込むことで、蒸発により河靄が発生するのである。
 しかし、この地を包む紫の帳(とばり)は、それだけではない。
 地表に降りた朝露が地熱によって暖められ、それも靄となって立ち上る。これは盆地靄と呼ばれ、八幡原のような湿地でよく発生するものだった。
 そして、もうひとつが、谷や麓から山肌を昇る風に乗った山霧である。
 気温が下がる夜更け過ぎから朝方にかけ、山肌には谷から頂きへ向かって湿った滑昇風が吹く。その湿った大気が霧となり、遠くからは山が雲に覆われたように見える。
 実際は山中が濃霧に包まれており、うねる風によって常に予測不能な動きをした。
 ――今頃、山へ入った奇襲隊は、深い霧に包まれていることであろう。敵の物見から姿を隠すには好都合だが、灯(あか)りもなしで山中を動くとなれば、これほど厄介なものはない。おそらく、奇襲隊は山中の行軍にかなり難儀しているはずだ。特に、兵部(ひょうぶ)殿の隊は……。
 信繁は山岳の登攀(とうはん)に不慣れな赤備(あかぞなえ)衆の身を案じていた。
 川中島とそれを囲む山々は、払暁までこうした靄や霧に包まれ、視界が定かではなくなる。 それは風に乗ってぶつかり合い、不思議な渦を巻き、絶え間なく動いている。それゆえ、靄や霧が晴れる機を読むのが非常に難しかった。
 信繁は千曲川を渡って八幡原へと向かう。
 そこは己が先陣大将として陣を構える場所だった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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