よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 ─―なれば、迷うこともあるまい。まずは村上隊に懸かっている武田の先陣を切り崩し、そのままの勢いで敵の総大将がいる本陣まで貫いてくれようぞ。
 柿崎景家は大きく手綱を引き、素早く馬首を返す。 
「ここからは各個撃破にて敵本陣を目指す! 皆、後れをとるな!」
「おう!」
 黒母衣衆も気勢を上げながら一斉に馬首を返す。 
 その刹那、だった。
 柿崎隊の視界に、一団の騎馬武者が飛び込んでくる。
 紅糸縅(あかいとおどし)の甲冑を身に纏い、朱塗りの槍を手にした武者が先頭にいる。その背を数十騎の紅母衣(あかほろ)が追っていた。
 それを見た景家は、奇妙な既視感に囚(とら)われる。
 ─―この光景は、昔、どこかで見たことがある……。夢の中か?……いや、確かに、あの場所だ!
 眼前の光景は、脳裡である記憶と結びつく。
 それは二度目の川中島の戦いだった。
 ─―ひときわ美装の騎馬武者は、おそらく犀川で相まみえた、あの者であろう。ならば、あれが武田の先陣大将! 自軍の劣勢を悟り、この柿崎が首をまっすぐ狙いにきたということか。望むところよ!
 そう思いながら、越後一の武辺者の心胆に火が点(つ)く。
 柿崎景家は愛駒の腹を軽く蹴り、発進させる。鋭い眼差しの先には、紅糸縅の甲冑に身を包んだ武田の先陣大将がいた。
 信繁は自らの乾坤一擲(けんこんいってき)に劣勢の挽回(ばんかい)を賭けている。
 上杉政虎の奇策によって圧倒的な劣勢に追い込まれた武田勢の先陣が、勢いを盛り返すには劇的な変化が必要となるはずだった。
 それゆえ、越後一の武辺者である柿崎景家を倒し、それを触れ回れば双方の士気が入れ替わり、戦況が一変する可能性があった。
 その思惑を瞬時に、越後の先陣大将も悟っていた。
 越後勢にしても、突撃してきた武田勢の先陣大将を返り討ちにすれば、車懸の戦法で得た優位が決定的なものとなる。
 それはこの合戦の趨勢(すうせい)を決めるほどの戦果となるはずだった。
 互いの両肩に自軍すべての存亡を背負い、二人の先陣大将は相手を目がけて愛駒を駆る。
 払暁を迎えて戦いが開始されてから、すでに一刻(二時間)あまりが経っていた。
 頭上にあった旱雲が風に流され、翳(かげ)りなき蒼天が顔を覗かせている。
 降り注ぐ清光を受け、信繁は左手だけで激しく手綱をしごく。右手の朱槍は、敵の喉元に放たれる刹那のために溜められている。
 疾風となって走りながら、その脳裡には寸刻前の出来事が脳裡を巡る。
 越後勢の思いも寄らない戦法で一撃を受けた後、信繁は瓦解しそうになる先陣を立て直しながら、明確に己の死を覚悟した。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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