よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 盾兵たちが騎馬を箕手に包み、槍兵たちが槍衾(やりぶすま)を見舞う。
 敵の騎馬武者たちが地上へ転げ落ち、そのせいで車懸の動きに異変が起こり始めた。
 間髪を容れず、信繁は後方にさげてあった弓隊へ命ずる。
「敵の後続にありったけの矢を打ち込め! 騎馬の動きを止めよ!」
 その声に従い、弓隊が弦を引き絞り、矢を放つ。
 千針。蒼天に打ち上がった夥しい矢が、越後勢の騎馬めがけて降る。
 それを避けようと馬上で槍を振り回す武者に、武田の足軽たちが群がった。
 龍蜷の第二陣を担う村上隊が足止めされ、これまで見事な弧を描いていた越後勢が総軍で蛇行している。味方と衝突しないよう、それぞれが勝手に進路を変え、緊密だった陣形がばらばらになり始めた。
 後方から反転しようとする黒母衣の柿崎隊と、後続の間に大きな隙間が生まれている。
 ─―この機か!?
 信繁は前方を凝視する。
 圧倒的な劣勢の中に、ほんの微かな光明が射(さ)す。
「騎馬の者は、この身に続け! 目指すは敵先陣大将の首級のみ!」
 次の刹那、愛駒の腹を蹴り、疾風の如く駆け出す。
 槍を持った右手を突き上げ、武田の先陣騎馬隊がいずれも鬼神の形相となり、大将の後に続く。
 しかし、越後勢第二陣の異変に気づいていたのは、信繁だけではなかった。
 突然、己の背後の気配が途切れたことを察知し、柿崎景家はすぐさま駒を止める。大将の動きに呼応し、黒母衣衆の騎馬隊も手綱を引いて馬を制動した。
 一隊はすでに龍蜷の陣からちぎれるような形で孤立している。
 ─―敵の先陣が、われらと村上隊の間に割って入ったか……。さすがに武田の将も無能ではない!
 振り向いた柿崎景家は、小さく舌打ちする。
 遥か後方には、味方の第二陣、村上隊に取りつく敵足軽の姿が見えた。
 それを確かめた柿崎景家は、素早く次の一手を思案する。
 取るべき行動には、いくつかの選択肢があった。
 このまま、何事もなかったように隊を率い、車懸の動きで勢いを取り戻してから敵の横腹を突くこと。あるいは、ここから冷静に戦況を見極め、最も弱そうな敵の部隊を殲滅(せんめつ)しにかかる。
 ―─いずれを選ぶにせよ、かかる事態は御屋形様の軍略の中に想定されていたこと。さしたる瑕疵(かし)はなし!
 柿崎景家は黒漆塗りの槍を握り直しながら上杉政虎の言葉を反芻(はんすう)する。
『車懸という奇策は、いつまでも続けられるものではない』
 轡を並べかけた上杉政虎は、そう言った。
『車懸が途切れてから、真の勝負が始まる。されど、かの戦法が生み出すわれらの優位は微塵(みじん)も揺るがぬ。優勢のままに、武田晴信(はるのぶ)の喉元まで迫るが、この戦の真髄よ』
 その言葉通り、車懸の戦法は敵の先陣を混乱の坩堝(るつぼ)に叩き込み、充分に利を得ている。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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