よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 それに較(くら)べ、虎光の周囲では風に流される靄がどんどん増えてゆく。
 八幡原を覆う白い帳が取り払われようとしていた。
 それを見た山本菅助が虎光に言う。
「典厩殿と話し合った方がよろしいのではありますまいか」
「決められた刻限に奇襲が始まっていないことは、すでにあの御方もご存知であろう。その上で、何も動きがないということは、このまま予定通りに備えよということかもしれぬ。われらが慌てふためくような動きをいたせば、下の者が無用に動揺してしまう。ここはもう少し辛抱し、奇襲隊の動きを待つのがよいか。それとも、物見を出した方がよいのであろうか……」
 室住虎光も判断を迷っていた。
 その時、靄の中に蹄音(ていおん)が響く。
 それとなく身構えた二人の前に、一騎の武者が現れる。
「典厩殿より御伝言にござりまする!」
 下馬したのは、先陣中央から駆けつけた室賀(むろが)信俊(のぶとし)だった。
「信俊、何かあったか?」
 室住虎光が硬い表情で訊ねる。
「奇襲の刻限が過ぎておりますのに、何の気配もないことに対し、典厩殿が危惧なされまして、物見を出しましてござりまする。その報によると犀川の畔(あぜ)に人馬の溜まる気配ありということ」
 室賀信俊の話に、二人の足軽大将は顔を見合わせる。
「犀川の畔に人馬の気配だと!?……奇襲する妻女山とは反対側ではないか?」
 虎光が思わず眼を剥く。
「さようにござりまする」
「越後勢なのか?」
「越後勢の後詰にしては数が少なすぎますゆえ、善光寺(ぜんこうじ)にいる軍勢と連絡を取っている一隊ではないかと、物見の者が申しておりまする」
「ならば、景虎(かげとら)はこの靄に紛れて退陣の算段をしているということか?」
「奇襲が始まらぬのは、そのことと関係しているのではないかと典厩殿が考えておられました」
 室賀信俊は先陣大将の考えを二人の足軽大将に伝える。
 ――景虎がこの期に及んで一戦も交えずに撤退だと? 敵軍の撤退とわれらの奇襲が偶然重なったため、うまく事が運ばなかったというのか?……にわかには信じられぬ。
 室住虎光は得心のいかない面持ちで訊く。
「ならば、越後勢の本隊はどこにいるというのだ?」
「典厩殿はそれを探るために、それがしへ両翼から千曲川の畔へ物見を出してもらうようにと命じられました」
「なるほど。われらもちょうど今、物見を出そうかと考えていたところだ」
「では、豊後殿。その者たちをお貸し願えませぬか」
「どうだ、道鬼斎」
 虎光は山本菅助に確認する。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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