よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「典厩(てんきゅう)はいかがいたしておる?」
 信玄がおもむろに訊く。
「万端にお支度を整えられ、すでに追手門にて御屋形様をお待ちしておりまする」
「さようか。孫次郎(まごじろう)、源五郎(げんごろう)、わが兜を持て!」
「ははっ」
 これまで広間の隅で気配を消して控えていた曾根(そね)昌世(まさただ)と真田(さなだ)昌幸(まさゆき)が諏訪法性の兜に歩み寄る。
 二人は慎重に大兜を運ぶ。
 獅嚙の前立が灯りを受け、まばゆく輝いた。
 信玄は奥近習(きんじゅう)二人の介添えで兜を被(かぶ)り、忍緒(しのびのお)をしっかりと締める。白熊の蓑を一振りしながら立ち上がり、鉄の軍配を持ち上げた。
「よし。では、参るぞ」
 重々しい声を発し、総大将が歩き出す。
「はっ」
 原昌胤と二人の奥近習が同時に声を発して後を追う。
 大広間を出て、追手門へ向かった信玄が外へ出た途端、急に脚を止めた。
 何事が起こったのか、と三人が総大将の様子を窺(うかが)う。
 信玄の眼前は、篝火(かがりび)も定かでないほどの靄に包まれている。
 しばらく、その様を凝視していた。
「隼人佑、すぐに典厩を呼んでまいれ」
 信玄が厳しい声で命じる。
「はっ。ただいま」
 原昌胤は敏捷(びんしょう)に踵(きびす)を返し、靄の中へ走り出す。
 信玄が眉をしかめて前方を見つめていると、当世具足で身を固めた武田信繁がやって来る。
「兄上、いかがなされましたか?」
 信繁は怪訝(けげん)な面持ちで訊(たず)ねる。
「数歩先の篝火も見えぬほどの靄だが、このまま城を出ても大丈夫であるか?」
 信玄は先頭を行く予定になっている先陣大将に問う。
「なるほど、この朝靄を危惧なされましたか」
 信繁は兄の顔を見つめ、にっこりと笑う。
「兄上、大丈夫にござりまする。これは、われらが味方かと」
「味方とな?」
 信玄は小首を傾(かし)げながら呟(つぶや)く。
「ええ。ここ数日、いつもこの時刻に同じような靄が出ておりまする。おそらく、妻女山(さいじょさん)の周囲も相当の山霧に包まれ、敵にはわれらが城を出ていく様はまったく見えず、背後に回った奇襲隊の気配すら感じることもできますまい」
「されど、かような視界で予定通りの場所に布陣できるのか?」
「ご心配召されまするな。毎晩、この信繁が靄の中を歩き回り、眼を瞑っても広瀬を渡って八幡原へ布陣できるように道筋を覚えておりまする。先導は、それがしにおまかせくださりませ。そして、この靄が晴れる機も、寸刻違(たが)わずしっかりと摑んでおりまする」
「さようであったか」
 信玄は自信に溢(あふ)れた先陣大将の顔を見て、やっと笑顔に戻る。
「では、参ろうぞ」
「御意!」
 兄の言葉に、信繁が短く応える。
 二人はそれぞれの愛(まな)駒に跨(またが)り、追手門の前で轡(くつわ)を並べた。
 それは実に不思議な出陣の光景だった。
 派手な鳴物もなく、兵たちの気勢もない。総大将の信玄が振り上げた軍配を無言で下ろしただけである。
 先陣大将が静かに愛駒を発進させ、粛々と深い朝靄の中を進んでゆき、総軍がそれに続いた。
 わずかな灯明だけを頼りに、信繁は広瀬の渡しを抜け、八幡原へと向かう。
 驚くほど静かな行軍を終え、武田掃討隊の八千は川中島に鶴翼(かくよく)の陣を布いた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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