第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)6
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
七十四
払暁を迎えようとしている川中島の上空で、旱雲(ひでりぐも)が黎明独特の蒼色(あおいろ)に染まってゆく。
地上はまだ厚い朝靄に包まれ、それが天の色を淡く映している。
音はといえば、時折、どこからか翡翠(かわせみ)の囀(さえず)りが響いてくるだけだった。
やがて、東の空が蒼みを失い始め、徐々に明るくなってくる。
山霧に煙った妻女山の背後から微(かす)かな光明が広がってゆき、それにつれて、まるで神気に煽(あお)られるかの如く靄の動きが活発になった。
そして、その下にある八幡原で、一人の老将が動いていた。
武田勢の掃討隊はこの湿原に鶴翼の陣を布き、奇襲隊が山から越後勢を追い落とすのを待っている。
そこを足早に動いていたのは、飯富(おぶ)虎昌(とらまさ)の代わりに先陣右翼を受け持った室住(もろずみ)虎光(とらみつ)だった。
――おかしい。……これは、おかしいぞ。
虎光は渋い表情で反対側の先陣へ向かう。
左翼にいる足軽大将、山本(やまもと)菅助(かんすけ)と話をするためだった。
「道鬼斎(どうきさい)!」
虎光は険しい面持ちで声をかける。
その呼びかけに、菅助は驚いて向き直った。
「豊後(ぶんご)殿ではありませぬか。いかがなされた?」
「すでに奇襲決行の刻限、寅の下刻を過ぎようとしているのに、山の方からは声ひとつ聞こえてこぬ。おかしいとは思わぬか?」
室住虎光の眉間に刻まれた深い皺(しわ)が、その不安を物語っている。
実は山本菅助も同じことを思いながら、空が明るくなる様を確かめていた。
奇襲隊が一斉に敵陣へ攻め込んだならば、東の方角から何かしらの物音や声が聞こえてくるはずだった。
しかし、約束の刻限を四半刻(三十分)も過ぎようとしているにもかかわらず、妻女山(さいじょさん)の方角からは物音ひとつ響いてこない。
どう見ても、奇襲が始まったという気配がなかった。
「山にはまだ霧が立ち籠めておりまする。少しばかり手違いがあり、攻め入るのが遅れているのやもしれませぬ」
同じ危惧を抱えていながら、菅助はつとめて冷静に振る舞おうとする。
「されど、奇襲に回った者たちが約束を違えるとは思えぬ。どれほど霧が深かろうとも、己の命に替えても決め事は守る剛の者たちだ」
「確かに、さようにござるが……」
「どうも腑(ふ)に落ちぬ」
室住虎光は周囲を見渡してから、再び東の方角を見上げる。
己を包んでいる靄は小さく渦を巻き、軆(からだ)にまとわりつきながら西へ流されていた。
山の陰とならない八幡原の西側が最初に暖められ、大気が上昇し始めるため、一気に風向きが逆となるからである。そして、その動きは、かなり疾(はや)い。
東の山肌を滑るように昇っていた霧が急速に向きを変え、麓へ降り始める様が肉眼でもはっきりとわかる。そのため、山霧と朝靄がぶつかり合い、妻女山一帯で滞留しているように見えた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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