第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)6
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
夜と朝のちょうど境目で、ほんの瞬(まばた)きの刹那だけ時の流れが堰(せ)き止められたのではないかと思えるほど神妙な景色だった。
義信の視線もそこに釘付けになっていた。
「さて、そろそろ城へ戻り、兄上にお出ましを願わねばならぬ」
信繁が海津城に向かって歩き出す。
「はい」
義信はその背を追う。
その頃、信玄は灯明が揺らめく海津城の大広間で瞑目(めいもく)していた。
その正面で、黄金の獅子(しし)が牙を剥(む)いている。
長い角を生やしたその聖獣は、諏訪法性(すわほっしょう)と呼ばれる大兜(おおかぶと)に付けられた獅嚙(しかみ)の前立(まえだて)だった。
今にも嚙(か)みつきそうな鬼相の獅子は、かの九郎判官義経(くろうはんがんよしつね)公も愛用していた魔除(まよ)けの御守である。
甲州金を惜しみなく使って打たれた獅嚙は、揺れる光を受けて爛々(らんらん)と煌(きら)めいていた。
さらに、この兜の両側には大仰な吹返しが付けられ、頭頂から後方にかけては長い白熊(はぐま)の蓑(みの)が下げられている。遙(はる)か古(いにしえ)の源平争覇を彷彿(ほうふつ)とさせるような威容だった。
信玄は緋糸縅(ひいとおどし)の白檀大札胴(びゃくだんおおざねどう)で身を包み、床几(しょうぎ)に腰掛けたまま眼を瞑(つぶ)っている。その甲冑(かっちゅう)もまた、源平争覇の頃に愛用された大鎧(おおよろい)のような風情を漂わせていた。
近頃は戦場での動きを考え、家臣たちは装飾の少ない当世具足を身に纏(まと)っている。
しかし、信玄はそれを選ばず、武田家伝来の家宝である楯無(たてなし)のような大鎧を好んだ。
それは兜においても同じであり、諏訪法性は当世一等の兜工(たくみ)と謳(うた)われた明珍(みょうちん)信家(のぶいえ)が丹誠こめて作った逸品の大兜だった。
それはまだ主の頭に戴(いただ)かれず、広間に鎮座していた。
そこへ人の跫音(あしおと)が近づいてくる。
「御屋形(おやかた)様、失礼いたしまする」
静まりかえった大広間に若々しい声が響く。
信玄がゆっくり眼を開けると、陣馬(じんば)奉行の原(はら)昌胤(まさたね)が片膝をついて頭をさげていた。
「そろそろ、ご出立の刻限にござりまする」
原昌胤が声をかける。
「隼人佑(はやとのすけ)、いま、何刻であるか?」
「はっ。丑の下刻(午前三時)過ぎにござりまする」
「うむ」
今回の策では、山中に潜んだ武田奇襲隊が、払暁前に越後陣へ攻めかかる手筈(てはず)になっている。
この時期の払暁と言えば、ちょうど卯(う)の上刻(午前五時)頃である。
その直前にあたる寅の刻(午前四時)頃が最も眠気に襲われる時刻であり、それを狙って朝駆(あさがけ)の奇襲を仕掛ける予定だった。
城に待機している掃討隊はそれを踏まえ、寅の刻前に出立すれば、ちょうど良い頃合いで八幡原へ布陣できる。
いよいよ開戦の時が迫っていた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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