よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)17

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

    四十 (承前)

 信方(のぶかた)の急な反転を見て、鶴翼(かくよく)に広がっていた騎馬隊もそれぞれに馬首を返す。
 しかし、整然とした退却は叶(かな)わず、陣形を崩して走り出し、敵兵からは明らかに算を乱したように見えていた。
 背中を晒(さら)した騎馬兵につられ、敵の槍足軽が一斉に追撃しようと動き出す。全力で迫れば、長槍なら届きそうな距離だったからである。
 敵の槍足軽が咆吼(ほうこう)を上げながら川縁に向かい、板垣(いたがき)隊の騎馬兵を追う。逃げる相手の背に槍先が届けば、大きな戦果を上げることができるはずだった。
 だが、慌てたように見える騎馬隊は、逆に敵の槍足軽を引き付けながら、素早く扇状に広がっていく。
 何とか手柄を上げようとする敵足軽隊は、必死でそれを追い始め、産川(さんがわ)に踏み入る。当然のことながら、横一列で槍衾(やりぶすま)を見舞おうとしていたはずの陣形が崩れてしまう。
 その様を嘲笑(あざわら)うように、板垣隊の騎馬兵は愛駒の尻を叩(たた)きながら逃げていた。
 それこそが信方の狙いであり、騎馬隊に託された策だった。
 いち早く退却した信方の後方から兵の集団が走ってくる。副将の才間(さいま)信綱(のぶつな)が率いる二百名ほどの長槍足軽隊だった。
 すれ違いざま、信方が副将に向かって叫ぶ。
「信綱、足軽の真似(まね)をさせてすまぬが捌(さば)きは頼んだぞ!」
「承知いたしました!」
 才間信綱が長槍足軽たちに命じる。
「二人一組で敵兵一人に狙いを定めよ!」
「おう!」
 長槍足軽隊は退却した騎馬隊と入れ替わるべく、二人一組となって前進する。
 散り散りになった敵兵が、その姿に気づいたのは産川を渡ってしまってからだった。
 才間信綱の率いる長槍足軽隊は標的を定め、先頭にいた敵兵に襲いかかる。一人が敵の反撃を捌き、もう一人が間髪を容(い)れずに相手の急所に槍を突き入れた。
 同じ長槍足軽であっても、二人を相手にした敵兵はひとたまりもない。
 各所で同じような光景が繰り広げられ、辺りに敵の屍(しかばね)が増えていく。
 再び馬首を返した信方が、その様を見つめていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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