よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)17

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「承知いたしました」
 広瀬景房が一礼してから踵(きびす)を返した。
 若い騎馬武者が上田原(うえだはら)を出立した頃、真田(さなだ)幸綱(ゆきつな)が本陣に着き、晴信(はるのぶ)に連珠(れんじゅ)砦の件を報告していた。
「……そなたの話が確かならば、天白山にいるのは囮(おとり)の兵だということか?」
 話を聞き終えた晴信が眉をひそめる。
「それがしの話が杞憂(きゆう)であることを願いまするが、村上(むらかみ)が連珠砦へ本隊の兵を入れていた場合、天白山の敵兵はわれらの先陣をばらばらにするための囮の恐れがありまする」
「されど、そなたが申す和合(わごう)城とやらから、われらの動きが見えるのか?」
「おそらくは。和合城の側には千曲川(ちくまがわ)を挟んで二つの岩鼻(いわばな)という景勝地がありまする。上流に向かって右岸の崖を下塩尻(しもしおじり)岩鼻、左岸の崖を半過(はんが)岩鼻と申し、この二つの頂上に物見の兵を置きますれば、上田原もわれらの先陣も丸見えにござりまする。一千もの兵が動けば、一目瞭然かと」
「……二つの岩鼻」
 そう呟(つぶや)きながら、晴信は弟の信繁(のぶしげ)と顔を見合わせる。
「その二つの岩鼻が北国(ほっこく)街道をも挟んでおり、上田と坂木(さかき)の境界となっておりまする。そして、下塩尻岩鼻はまさに和合城と連なるような場所にありまする。天白山を含め、この三カ所に置いた物見が烽火(のろし)や音で連絡を取り合えば、和合城にいても、われらの動きを摑(つか)むことができまする」
「真田、和合城を含め、連珠砦には、いかほどの兵を隠せそうか?」
「……四、五千は間違いなく。あるいは、それ以上も可能かと。それゆえ、すぐにお知らせいたさねばと思いました」
 真田幸綱の答えを聞き、再び晴信と信繁が顔を見合わせた。
「兄上、すぐに先陣へ使番(つかいばん)を出しましょう。念には念を入れ、駿河守(するがのかみ)と甘利を科野(しなの)総社へ戻した方がよいのではありませぬか」
 信繁が進言する。
「そのようだな。信繁、残っている使番を見繕い、先陣の三カ所へ向かわせてくれ」
「畏(かしこ)まりました」
 信繁は手配りに走る。
「……それがしは、いかがいたしましょうや?」
 真田幸綱が申し訳なさそうな面持ちで訊く。
「そなたはここで待機してくれ。もう少し詳しい話を聞きたい」
「はい……」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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