第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)6
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「そこにいる足軽頭(がしら)の一隊をお使いくだされ。されど、室賀殿。典厩殿が考えておられるような動きを越後勢がしているとしたならば、この先でいきなり敵と遭遇することもありえまする。何か些細(ささい)なことでも見つけたならば、すぐにこちらへお知らせを」
「わかりました」
室賀信俊は頭を下げ、素早く踵を返す。
それから、足軽隊を連れて物見に出た。
「豊後殿、今の話をいかように思いまするか?」
菅助の問いに、室住虎光は困った表情になる。
「われらの奇襲を察し、景虎が靄に隠れて退陣したとは、どうしても思えぬ……」
「それがしも同感にござる」
「されど、なにゆえ奇襲が遅れているのかも、見当がつかぬ……」
虎光は不甲斐(ふがい)ない己を叱るように拳骨で兜を叩(たた)く。
「ここは考えを改め、理由はわからぬが、われらの奇襲は敵にすかされたと見て、警戒した方がよさそうだ。ならば、この先、何が起こるか予断を許さぬ。さりとて、越後勢がすべて消えたわけでもあるまい。必ずや、この川中島のどこかに潜んでおる。とにかく、何があっても対処できるよう、われら先陣は臨戦の態勢を取ろうではないか」
「承知!」
「間もなく陽が昇り始め、この靄は消える。それがしは陣へ戻っておく」
室住虎光は東の空を睨(にら)んでから先陣右翼へ向かう。
――異変が起きてしまったようだ。
山本菅助の背筋に悪寒が走っていた。
─―それも、わが策を揺るがすほどの異変であり、陽が昇れば、すぐにそれが明らかとなる。されど、何が起こっていようとも、心胆を揺るがしてはならぬ。
そうしている間にも、うっすらと霞(かす)む山影の天辺からわずかな曙光(しょこう)が漏れ、東の空が急速に白み始める。
払暁だった。
山陰から日輪が顔を覗(のぞ)かせたようで、煙った稜線(りょうせん)に御来光が広がる。
これまで留まっていた靄が渦を巻き、まるで生物のように動き出す。どこからともなく風が吹き始め、やがて、それがはっきりと東から西への気流に変わった。
靄が流されながら消え始め、川中島の全域があからさまになるまで、わずかな間の出来事だった。
もちろん、八幡原にいた菅助もその様を凝視していた。
わずかに残った乳白の靄を蹴散らし、騎馬が現れる。
「前方に、夥(おびただ)しき人馬の気配あり!」
荒い息を吐きながら、室賀信俊が叫ぶ。
その後方で、まるで何かに追い立てられるが如く白い帳(とばり)が消えていく。
その刹那、だった。
眼前に現れた光景を見て、山本菅助は思わず息を呑(の)む。己の瞳孔が開き、頬から血の気が失(う)せていくのがはっきりとわかる。
馬上で振り向いた室賀信俊も、金縛りにあっていた。
靄の壁が取り払われた向こう側に、蕪菁(かぶら)紋の旗幟(きし)が林立している。
越後勢の先陣、柿崎(かきざき)景家(かげいえ)の旗印だった。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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